前回からの続き。もっと圧縮しないと終わらないと気付く。
7 独自性と完成度
オリジナリティーはその作品の意匠ではないということを念頭におくことが肝要であり、完成度の高い作品ほど、その底に流れるオリジナルな味わいは強いのだと思う。
冬の滝ひびきて岩をはなさざる:極めて独創的な把握でありながら、その独創性が表面から消えて、読者にもはっきりと見える形象として作品化されたのではないかと思われる。
8 自然観照の確かさ
幹をつかみて剪定の手を伸ばす:写生というよりも、自分の体験をこめた、写実の句だと思う。
9 比喩と対比
きのこのやうに姉妹そだちて東風の家:ポツンと野中の一軒家に育つ姉妹の姿をきのこ、が象徴。「やう」や「ごとし」という言葉は、作品の場合、三流、七十点くらいの作品にはしやすいが、一流にするには、こういう、はっきりした言葉が全体に作用する、表現の効果、把握の確かさが揃わなければならない。
10 倦怠期の季語への懐疑
俳句を作るにあたってまず季語があり十七音であるということ、これが第一の手ほどきであって、そういう場合、存外物の見方に曖昧さがない。長年句作をしている俳人の、初期のものに力がある。そして俳句との関係に倦怠期を迎えて季語定型に懐疑を抱く。しまいには、季語が空気のようになっている。
道うるほへり桃の花従へり:「従へり」という言葉は作者が強い主観をこめながら存外目立たない。しかもそのとらえた桃の花が他の花には代えがたい。
11 見つめて目を離さない
俳句のような文章とは、写真加工アプリのフィルター。俳句フィルター的な。
写生とは、見つめて心の中に実部では感じない別途の実感が湧くまで目を離さなこと。
題詠の骨法は、その季題の特徴を表すのでなくて、そのイメージをどこでちょんぎるか、無限に広がっていく連想をどこまででちょんぎるかということにある。そして省略した部分を全体の中に巧みににじませる。
12 季語と季重なり
季語の本意を熟慮すると、季重なりはほとんど解消される。また、過去とは用法や指している事物が異なってきているものについても注意が必要。それは本当に季語の指示しているモノなのかと。
13 リズムと字足らず
小さい技巧で新味を出そうとする行き方は頭打ちになる。リズムがあってこそ。
14 題詠と想像力
心をとらえた中心を、正確に作品の中に畳み込む技術の衰弱。
題詠は追体験、でっちあげ。だが想像力を広げ、明確な輪郭をもつ作品を作る訓練。
15 作句力と選句力
選句力は好奇心の強弱が問題で、常に自分より優れた者を求める心がなければ向上しない。
16 残る匂いと消える匂い。
押し付けがましさと、消えていくなかにみ身をとらえて離さないもの。
17 一年たってもう一度見直す
没句も一年くらいは保存。みずからがみずからをおしえる。
「文藻」
文章に藻がある。とは、同じ描写をしても、そこになにかとらえ難いような、しかし文脈全体に強い作用を及ぼすふくよかなものがある、そういう意味。その「藻」というのは、意識してつけられるものではない。急にぱっとつくものでもない。流れに沿って、流れに従って、じつに自然についた姿です。
18 俳人の姿勢
有名な句を作ろうという姿勢がある場合は月並の濃度が濃くなる。立
→プレバト俳句の、東国原さんや、志らくさんにこういう傾向をわたしは感じる。
派な句とは正直な句だ。いい句というものは、人に見せるんでなくって、自分自身に自分が言い聞かせること。読者に求めるんではなくて、自分が作品の読者になる、より厳しい読者になることだろうと思う。自分の句とは、作ったときよりも二年経ち三年経ちすれば情景がもっと鮮やかになるもの、それが、その人の句だと思うんです。立派な句とはそういうものでしょう。
さむしともすがしとも思ひ春ショール→春ショールさむしともまたすがしとも:思ひは説明。
Ⅱ 内容と表現
19 一瞬の直裁な把握
「居る」だと擬人化。「ゐる」なら状態。
「たち」だと、達の漢字を当てて読まれるだろうが、「立ち」にすることで情景がさらに鮮明になる。「濤」は大波。
一群の鳥やや高き薄暑光:「やや高き」がじつにあざやかに高い、のは「鳥帰る」や「鳥曇に」というような、飛んでいく想いを馳せていつまでも見上げている空の「やや」ではなく、「薄暑」という季語を背景にチラッとみた瞬間の高さの直截的な把握だから。
20 子規の推敲
鶏頭の十本ばかり百姓家→鶏頭の四五本秋の日和かな→鶏頭の十四五本もありぬべし
21 感覚を支える土壌
旅行吟の骨法は、自分が自分の作品を一つ一つ消していく。一句には一句の世界。
平凡を恐れず、一番ウブな気持ちになって、そういうウブな気持ちのなかに鮮やかに見えた風景です。
(続く)