望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

大同小異の世界モデル

はじめに

 好きな物を書き写す、描き写す。これは幼稚園の頃からの習いだった。ヒーローも、キャラクターグッズも、かわいい子も、その裸足のサンダルも、夕焼けも、ケーキも。
 チラシの裏に書き殴ったつたないお絵描きの域を出ないものだったが、わたしは、その物を所有したい欲望よりも、自らの手で写し取っておきたいという欲望が勝っていたし、今もそういう傾向が強い。

 そのように写し取るものというものは、必然的に視覚的に好ましいものに偏ってくるのだが、やがて、日本語を組合わせて記録することに慣れてくるにつれて、下手な絵よりも、文章によって記録することが増えて云った。それでも、視覚的に好ましいものは即物的に保存していおきたいという欲望は根強く、中学生になると一眼レフを購入したりもした。だが結局、好ましいものを撮影するためにはさまざまな障壁があり、結局は見たものを記憶しておいて描き写す、という方法がもっとも使い勝手がよいと気付いた。
 後から参照できるようにコピーをしておく。という理由は二の次で、鮮明に記憶しておきたいがために、自分の手を用いてそれを描き写していたのだということに気づくと、写真やビデオは、時間がないとき、後から描き写すときのための補助的な記録へと後退し、やがて、そのような補助的な記録がなければ描くことができない物には、たいして執着はなかったということにも気づいて、そうした記録媒体は不必要となり、ただ、なにかを相手に伝えるための資料として画像や動画は活用するものだと理解するようになったのである。
 そしてそのような方法で相手に伝えたい物というのは、たいてい、私自身の記憶に留まることのない、辺りを漂っているだけのものであり、たとえばそういった物の写真をあつめたインスタグラムを見た人が、それらの画像をもってわたしがどういう物に興味を持ち、そこから演繹される人間像のようなものを想定できたとしても、本当にわたしが求めている事物に関する何物をも、そこには表現されていないのだが、インスタグラムのようなメディアの意義とは、そういうものであろうと考えている。

本当の自分

本当の自分。とはわたしが書き写した、描き写したものだけでできており、それはを本当に認識できるのは、写した自分だけである。だから、本当の自分というものは、他者にとってはまるで無意味な写像の氾濫であるにすぎないのだが、その氾濫には一定のバイアスがかかっており、それは時代や文化や経験によって偏りがあることから、近似値的に、それらの暗合を理解した気になることができる。

つまり、人それぞれがこれまでに書き写したきた世界に、他人が書き写してきた世界を書き写してみることによって、それを自らに取り込むことができる。自らに取り込むということは、すなわち他人の世界を自らの手癖によって改変することに他ならないのだが、全ての理解はそのようになされるより他ないことは、疑いようのない事実なのである。

栄養も免疫も知識も認識も

人体は異物を外から内へ取り込んだ後に、ようやくそれを操作することができる。もっとも外在的だと考えらえる「触覚」ですらも、触れる際に生じる変化(それは外から内への凹みの移動だ)を捉える感覚であり、触れた物そのものではなく、そのように触れられた皮膚の感覚を評価するという間接的なプロセスを踏む。食事も、免疫の働きも、知識も同じだ。それらを内部に取り込み、その上で自らの内部に組込むことにより、自らを変化させていく。外→内に働く活動の全てが自己破壊と自己生成のプロセスであり、内→外に働く活動の大半が排出と反射なのである。

糞便も表現も

内→外は内部環境を保持するために欠かせない生理的行為である。それは、感情の吐露や言葉、表情やしぐさなどのあらゆる行為も同様なのである。喜怒哀楽や優しい言葉も排泄に過ぎないのか? と問われればYESというよりほかない。内部には不要なものを捨てる行為である。あらゆる表現活動は糞や屁と、用いる器官は異なれども、同じ仕組みで排泄される。このあたりのことは、以前に『永い屁』という文章にまとめたので可能であればそちらを。

今回のブログは「外→内」と「内→外」の間に起こっている「モデル化」のことを書こうとしていたのだった。

間接的

我々は、宇宙服や潜水服のようなものを纏って存在している。宇宙や海底で、そのような装備が必要な我々はおそらく「もっと身軽に、直に、環境に触れたい」と願いのではないだろうか。それをつきつめると、脳は肉体に対してそのような感覚を常に抱いている。さらに正確に言うならば、脳に対しても同じように感じているはずだとわたしは考えている。なぜならば、脳そのものもまた、肉体の機構のひとつだからだ。

 だが、今回はその問題ではなかった。脳が五感の知覚をどのように認知し、認識、つまりは評価を行っているのかを改めて書いておこうというのが主眼だった。

モデル

我々は世界認識のモデルを構築しており、五感のあらゆる知覚はそのモデルに照らして評価される。評価されたとき、それらの知覚は感覚として位置づけられる。我々は、まず感知し、それから評価したのち、あらためて知覚する。重要なのは、評価した後に得られた知覚とは、まず感知した感覚とは別の、再構築されたものであるという点である。
再構築は具体的に何によってなされるのか。
それは、あたかも裁判官が判例にあたって新たな事例に適切な量刑を定めることと似たプロセスが、自働的に行われるのである。

判例とは、これまでに自分自身が写し取ってきた世界像である。その貧富や粗密は人それぞれである。だが、貧しい世界モデルによって新たな知覚を評価する場合、それは貧しいものに落ち着きがちとなることは容易に想像がつく。また、あまりに脆弱な構造の世界モデルを用いるものは、その全体を容易に改変されてしまうかもしれない。それほど、それぞれが構築してきた世界モデルとはフレシキブルなのである。つまり、ちょっとしたことでコロコロ変化してしまう規範で、我々は世界を認識しているのである。

たとえば、道端に何か長い物が落ちているとき、それがヘビか繩かを見極める前に、脳内モデルにおいて迅速なる検索がなされている。それが走る車の窓からチラリと見えただけのことであれば、それは蛇でも繩でもどちともとれた事例という判例に落ち着くかもしれないし、蛇のようだが、ここにあのような蛇がいるとも思えない、という経験則や思い込みが勝てば、あれは繩だったのだ、と強引に結論づけるかもしれない。そして、実際はブラジャーであったという事実は知らないまま、一生を終えることになる。

餓鬼の世界

天国から地獄にいたる階層構造を解く宗教は多いが、そのような多層性や多重性によらずとも、この脳内モデルによって単一の表層にさまざまな認識が可能であることはいうまでもない。実際、疑心暗鬼とはこのような脳内モデルのバイアスを示す言葉であろう。悲観論や楽観論も同じ。トラウマも引き寄せも同様。我々はまず、起きた事例に似た何かを脳内モデルに探そうとする。そのサンプルに幸せなことが多いか、暴力的なことが多いか、成功体験が多いか、失敗体験ばかりなのか。それらはこれまでにその人がどのように世界を写してきたのかによるし、新たな評価によって世界モデルもそちら寄りに強化されていくのである。だから、餓鬼は餓鬼の世界におり、楽天家は楽天的な世界にいるのである。当然、感じる感情だって異なってくるだろう。それは世界が異なるのではなく、採用している世界モデルが異なるのである。

似たもの

存在は間接的にしかありえない。なぜならば存在は存在しないからだ。
と書けば、仏教になる。
争いは大同小異の小異に生ずる。人間は互いに似ているので、理解できるはずと思い込んでしまう。そこに言葉が拍車をかけた。話せばワカるという無責任な風潮がコミュニケーションの困難に苛立ちを与えた。もともと分からないと分かっていれば、意思疎通にかけるコストは苦にならなかったかもしれないし、条件付きの理解で納得できたかもしれない。

おわりに

我々は似ている。だが全く異なる世界に生きている。その異なり方は大同小異であるかに見えるが、その小異を囲っている砦を乗り越えることは、不可能なのだ。

それは感情でも言語でも超えることができない他者性の真髄である。そこに触れようとする事物が、芸術であり、それは哲学的であり詩的なのである。