はじめに
理解とは現象を名づけること、ということになっている。
「あの空の七色のアーチは何かしら」
「あれは虹さ」
ここで、「虹」という名を知ったことで、それまでその名前を知らなかった人の知見の変化量は「虹」という名前が増えただけのことだ。
だが一度その「虹」という名前を知ってしまったら、今後、同じように見える現象を全て「虹」という既知の、ありふれた現象として処理してしまうことが増えるだろう。
もしそれが「虹」ではなく「彩雲」や「環水平アーク」といった別の名前で呼ばれるべきものであったとしても。
それらにしても、やはり行きつくところは「名前」なのであるが。
唯名論
言葉は重要だ。言葉の全てが現象の名前だが、現象と名前の関係性は二重に恣意的であり、さらにその恣意的関係性を納得しうるか否かにおいてもまた恣意性が介入している。
「光あれ」と神が言い、「阿頼耶識」と僧が言い、「大脳新皮質」と学者が言う。
「唯名論」に対立する概念が「実在論」だという。
この「名称」から受ける私の印象とは真逆の意味で対立しているところがおもしろい。つまりは、「イデア」の有無で対立しているのだ。
写生の姿勢
ところで私が感じる「名前」は「一般」にべっとりと寄与しているのだから、現象を感受する際には可能な限り「名前」をエポケーしてその「実相」に迫るべき(=写生)と肝に銘じている。この「実相」と「実在」とを混同してしまうと、「唯名論」と「実在論」をまるっきり逆の主張と勘違いすることになる。
探求
近代哲学はすべて「神」に躓いた。実際のところ「一般」と「普遍」と「固有」の混同が問題となり、その辺りのことは柄谷行人さんが「探求」してくださった問題である。
だから、再読している。
私には「普遍」という概念はどうでもいい。それらは個別な現象を収集分類した結果見いだされる最大公約数としての共通点を取り出した概念であるより他ないことは明らかだからだ。多種の概念一つ一つにある「モデル」という意味での「イデア」としての存在するなどという煩雑な、場当たり的な実在などあり得ない。
もし、そのような「普遍」に値するとしたら、それは仏教における「一」であり、キリスト教における「聖霊」だけだ。これらに定形はなく常に流動することで、多種多様な様態を採るが、全ては等質等価なのである。
モデル
この多種多様な様態を採るのは何故か。また多種多様でありながら「類」を形成しているように見られるのは何故か。
それは我々の脳の世界の認知方式によるものと考えられる。
例えば、視覚はどのように線を認識し統合するか。というアプローチが不可欠である。
我々は世界を「モデル」に照合して、その近似度によって感覚している状況を認識している。蛇を見てびっくりした後、それが紐であると気付く場合、それが紐だと再認されるまでは蛇がいた世界線を生きることになり、そこには蛇ではなく紐があっただけだと、後から訂正しえたとしても蛇と認識した際の情動は一定の痕跡を残す。こうした脳内モデルを我々は生きており、常に実際の知覚との差異を時差をもって計測し、修正し続けることによって、綱渡り的に生活している。
このモデルと身体的フィードバックの精度は人それぞれである。
それでも人々は相互に「新しくできた店のケーキはおいしい」などという情報を共有しあうことが出来る。後日、その店へ行ったら蕎麦屋だったなどということもなくはないだろうが、同じ物をさしてある人は「ケーキ」といいある人が「蕎麦」ということはない、というのが理解の根本にはある。だが、それが保証されているわけではないことは、前出の「探求」が序盤に取り上げているところである。
クオリア
わたしは、ここに「クオリア」を持ち込むことはしない。それは「名前」とは別の次元の問題であり、むしろ問題にもならない問題だからだ。それこそが還元的に見いだされる論点でしかなく、論証不可能であることのみをもって重要視されているに過ぎないと考えるからだ。
写生の姿勢
イデアを求めても、写生はできない。
むしろ、「実体(イデア)」を離れるために写生はある。同様に「名前」によってモデル化された認識から離れるために「写生」はある。つまり「名前」や「実体」から離れるために写生はある。その場合の「名前」は「固有名」も含まれる。それはモデル化の最たるものだからである。
唯物論
ひたすら現象を観察し続け、安易なモデル化を押し付けようとする習慣を無視する。それは、まだ脳内に世界モデルを構築していない赤ん坊の知覚に似ているのではないかと思う。「子供のように」や「赤ちゃんのように」と言われる「純粋無垢」とは、モデルに囚われない認識、という意味においてのみ有効である。だが、写生においては、そのような観察によってモデルを構築すること自体を拒否しなければならない点において、困難を極める。
そのような姿勢を私は「唯物論」と呼ぶ。それは現象を一回限りの現象の現れとしてとらえる、生存するという目的には全く合致しない、サルトルの『嘔吐』に見られる感覚に耐え、生きていくことを困難にするだけの姿勢である。
すると世界が流動的であることが明らかとなる。全ての現象は時間に具現化されているからである。だから、「存在」が「存在」として固定しているのは、「脳内モデル」にのみである。譬えるならば、動いている時計を見て、動かない時計の時計を常に合わせ続けることが生きる目的であるような行為を、我々は繰り返しているのであるが、その我々が参照している動かない時計を無視するとき、まさにその動かない時計こそが「存在」の錯覚をもたらしていたのだと気付く。
観念的
存在という有様は内的であるより他なく、あらゆる現象は認識においてモデルとの偏差によってモデル化され、そのモデルもまた認識に遅れて再モデル化された存在となる。
だから、唯物論は観念的なのである。というより、世界は観念的にしか存在しえないのだ。仏教的観点から「観念的」でありかつ「流体論的」である存在は「唯物的」なのだと言い換えてもよい。
おわりに
心身二元論が否定された現在、観念論と唯物論の境界もまた失われた。写生が優れているというわけではない。だが、世界認識の別の方法として写生はおもしろいということを、今後も考えていきたい。