望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『光について』ロバート・グロステスト ―コーラとしての〈穹天〉

はじめに

『磁力と重力の発見 1』を読んでいて、タイトルの著作が気にかかった。そこで借りてきた。

キリスト教神秘主義著作集3 サン・ヴィクトル派とその周辺 須藤和夫 他 訳
教文館 2001.4.10初版

 ここに『光について』『色について』「虹について』の三つの文章が収録されていた。

『磁力と重力の発見 1」では、作者のロバート・グロテストさんを、ロジャー・ベーコンさんに先立つ人であり、自然に対する、感覚に依拠した経験に基づく観察から、幾何学的思考によって、『天地創造が神の意志や計画によるものでなく、自然法則にのっとった自然世界の自己展開とした』と記される。(p.248)

 ロバートさんは、自然界の全ての作用は光の拡張の結果であると、その著作である『線・角・図形について』で述べているとも紹介されていた。

 この光一元論がどのようなものなのか。光はどのように生じ、なぜ自己展開するのか。私の興味はそこにあった。

『光について』解説より

 まずは、翻訳者須藤和夫さんの解説をまとめておく。

・新プラトン的思想の濃いキリスト教思想家である。
グロステスト=巨大な頭 と呼ばれるほどの頭脳の持ち主。
・マケヴォイさん、という人によればこの著作は四つの部分に分けられる。
 ① 第一の物体的形相としての光
 ② 宇宙の生成
 ③ 宇宙の運動
 ④ 宇宙の完全性

・神の世界創造の最初に造られた光から、どのようにしてアリストテレス的な――もしくはアルペトラギウス的な――同心球的宇宙が生成してきたかが、過去のヘクサエメロン文書(特にバシレイオスとアウグスティヌス)、アリストテレスさんの宇宙論、新プラトン主義の光の思想、アラビアから流入した光学思想などをふまえて、みごとに統合されている。

 また、②に関連して、「無限」加算無限と実無限、及び無限の濃度を用いて、有限と無限との関係性を解き、それにより光が物体を生成する論拠としている点も面白い。

 参考文献として
グロステストとベイコンの自然観 中世の自然観』 高橋憲一著 創文社1991

が掲載されていた。いずれ読んでみたい。

光一元論

 私がここに魅かれるのは無論「真如」を感じたいがためである。

カオスをノモス(類・秩序・言語なき分節・可能体・ES細胞・量子もつれ状態的なもの)によって分節しそれをロゴス(種・エコララリアス的だが、共通言語として在るわけではないもの)が名づけるとき、存在体としてのコスモスと、未存在体の反コスモスとが激しく流動し続ける、というカオスモスが生じる。ただし、カオスとはコスモスからの視点による命名にすぎず、カオスとコスモスとは同じダルマに依拠する。

 という古代ギリシア・ローマ的述語で説明される中沢新一さん+井筒俊彦さん的仏教世界生成論という、私的な(そしてかなり粗雑な下書きとしての)華厳世界をふまえて、「光=真如」という観点から読み取ってみようとしたのだ。

エイドスを具えた光

 また、付け焼刃的に中沢新一さんの『芸術人類学』のⅢ章イデアの考古学「日本哲学にとって「観念」とは何か」旧石器洞窟のプラトン を読み返し、後期プラトン哲学『ティマイオス』に書かれている「コーラ(chora)」と「イデア」と「エイドス」についてメモを作っておいた。

コーラ

 外からやってきて秩序を与える父親的な「法」などなくとも、自分自身の力でゆるやかな秩序を作り出すことができる。そしてそれは受容器として、また子宮としてあらゆる存在を受け入れ、生み出すことができる。

これは、アボリジニのクナピピ(kunapipi))とほぼ同じで、プラトンさんはイデアと物質とをつなぐミッシングリンクとして採用している。という。

 イデアとはエイドス(かたち)から派生した言葉で、視覚的要素を持つ。かたちを知覚認識するうえで光は欠かせない。暗闇の中に生じる人体の内部的光が描く渦巻や幾何学模様などが、縄文の洞窟壁画に記されていることと、ヨガや密教で行われる「観想」による光の物質化の技法は、経験に汚染されない先験的知性には形態性(エイドス)がともなっている、とするイデア派の主張と通ずる(というか、そちらの起源のほうがよほど古いのだが)。

 プラトンさんにおいては、「イデア」と「コーラ」とは同居しあい、観念論と唯物論とが同居していた。(※それが形而上か形而下かの区分はあったと思う)だが、「イデア」と「コーラ」とを結ぶものを見つけられず放置した。

 イデアは視覚的であり幾何学を発生させ、コーラは数的であり算術を発生させた。両者は17世紀にデカルトが座標によって統合した。

 一方、西田幾多郎さんは「場所」の理論において、メタへのジャンプによって主語ー述語の関係を超越するのではなく(そんな超越した位置なんてないからね)、述語の奥に向かって無限後退(バックスキッパーズ!)していくことで、元型的な光のエイドスを直視できるのだとした。つまり、結ぶもの、ではなく結ばれる場所があるとしたのである。

『光について』

まず、

物体性の第一の物体的形相は光(Lux)である。

と宣言する。そして光を観察して得たその性質を列記する。

光は自力自己自身を全ての方向に拡散させるので、不透明なものに阻まれない限り、瞬時に光の点からどんな大きい光の球でも生じるからである。(下線筆者)

以下はその証明となる。まず、

物体性が備えるべき特性は、「三次元的な質料の延長」だが、物体性と質料とは、それ自体においては単純な実体であって、どんな次元をも欠いている。

という。つまり、原初は点しかないということである。このように

それ自体において単純で次元を欠いている形相が、同様に単純で次元を欠いている質料の内にすべての方向に次元を導入する、

つまり、ゼロ次元が三次元に広がるためには、

形相が自己自身を増殖させてすべての方向に瞬時に自らを拡散させ、この拡散において質料をも延長させるのでなければ、不可能である。

とする。むろんこれは、「光(lux)」の性質に一致する。

0を無限回増殖させると1となる

単純なものが有限回倍乗されても量を産み出さないが、無限回倍乗させるなら有限な量を産み出せる。

無限なものは無限なものに対してどのような数的比でももちうる。

光は自らを無限に増殖させることによって、質料を有限な大きさに延長させる。

  これらが、幾何学的に説明されている。(イデア的)

穹天

 光は自らをすべての方向に均等に無限に増殖させることによって、質料をも至るところで均等に球形に延長させるが、その結果必然的にこの延長の最も外側の質料部分は中心に近い最も内側の質料部分よりも延長させられより希薄になるのである。そして最も外側の部分が最高度に希薄になったならば、より内側の部分もまた、より希薄になることを受け入れるであろう。こうして完成した変化を受け入れる余地のない〈穹天〉は、第一質料と、第一形相のみからなる。

宇宙誕生である。さらにこの〈穹天〉は

自らの全ての部分から自らの〈ひかり(lumen)〉を、全体の中心に向かって放出する。

ひかりの自己増殖と無限の生成によって中心に量塊(moles)を集結させる。

第一物体は完成した不変なものである限り、もはや小さくはなりえず、場所は空虚にもなりえなかったから、この集結においては、量塊の最も外側の部分が延長させられ、放散されたはずである。

  こうして外側が最高度に希薄となって〈第二の球〉が完成されたもの、として生じる。

※解説より
第一物体である穹天は最高度に希薄化されているが、その内側はそうではない。ひかりの内向きの増殖放射のために内側の質料が中央にむけて濃密化されるのに応じて、穹天のすぐ内側の質料はそれだけ希薄にされるのである。したがって、ひかりの内向きの増殖放射のたびにこの濃密化と希薄化が同時に生じ、そのたびに新な天が形成されるわけである。

9+4=13

 同様に、九つの完成された球ができ、その下に、外側部分が最高度に放散されたというほどではない、不完全な、四元素の質料となるはずの濃密な量塊が集結させられた。

この不完全な四つの球は、完成された九つの「不変不増で不生不滅」の天球とは反対の「変化し増加し、生成消滅」する。

完全性

 上位のすべての物体はそれから生じてくるひかりのゆえに後続する物体の形象(species)であり完全性である。

すべての物体の形象と完全性は光である。

上位の光はより霊的で単純であるが、下位の諸物体の光はより物体的で増殖したものである。

おわりに

 自生しうるものは真如でありコーラのように自己展開する性質を持つ。

その自己展開は光として現れ、それがなされる場をカオスモスと呼ぶ。

今回はそのような観点から考えてみた。

 光の凝集によって量塊をもつ物体が生成しうるか?

 さざれ石の磐となりて。そんな言葉が頭をよぎる。素粒子から原始、分子、チリやガスがあつまって惑星ができる。その大元が「光」なのではないかと。

 しかし真如は「光」以前の何かで、分節によって光を生じさせる場なのかもしれないと思った。