望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

仏教にとって移動とは何か ―無常といふこと

はじめに

「一所不在の業があるから大変だよ」と『ブッダの方舟』で中沢新一さんが話していた。私はこのような業を「無常」を感ずるための業なのではないかと考えている。

蝶のように舞い

 一つのところにとどまらず、絶えず移動し続けることは、ボクシングのフットワークでもあり、批評家として必要な足場の確定(または非確定)方法である。浅田彰さんの『逃走論」が重んじた態度であり、「存在」の根本的なあり方そのものでもある。

 一つのところにとどまらないことによって、コミュニティーを固定せず、従って、あらゆる格差の原因となる「蓄積」から無縁でいられる。つまり、「貧富」「権力」「階級」といったものから離れていられる。山岳修行者はこのように、まつろわぬ者として、社会の表舞台に現れることなく行き続けたのだ。

意味(無意味)の発生

 定置することは、「意味」を生む。と言い換えることもできるかもしれない。それは、「移動」する者にとっては「拘束のための意味」でしかなく、足につながれた錘としての働きしかもたない「無意味」なのだ。それは「移動する者にとっての無意味」なのではない。そもそも「無意味」なものに「意味」を付しているだけのことに過ぎないのだということを、「移動する者」は知っている。

 「一所不在」によって、現代のあらゆる「格差」とそれによる「差別」とそこに発生する「犯罪」を無意味にすることが可能だ。まさに「分別」への対抗としての「移動」が、仏教にはあらかじめセットされていた。

パラドクス

 だが、ここに一つのパラドクスがある。ゼノンの有名なあれだ。

 飛んでいる矢は止まっている。

いかに、一所不在といったところで、体力の限界を感じながら、孤独に耐えながら、つねに異邦人としての立場を貫きながら、この過酷な態度を貫いたところで、実際には、「止まっている」のだと指摘されるのである。

 私が「パラドクス」だというのは、論理学上のことではない。

「分別」による「存在の隔たり」を最大限に利用する「一所不在」が、「絶対無分別」である「真如」へ至る方法である。というところに矛盾を感じているのである。

豆腐で譬えてみた

一度分割してしまった豆腐は、いかにくっつけようとしても元どおりにはくっつかない。それを粉々にして再度固めることができたとしても、元通りとはいえない。世界をこのように考えるのが「唯物論」だと思う。

 この世界は分割された豆腐であるが、実は未分割な豆腐というものが形而上学的に存在し、それがこの世界の原型(イデア)である。われわれは、この不完全な分割された豆腐の世界に、未分割の豆腐を顕すことを宿命としている。といえば、ギリシア的になる。飛んでいる矢は止まっている。というとき、その矢のイデアは止まっている。だが、この世界では飛んでいるように見える。この飛んでいるように見えるというところが、妄執なのだ。矢は移動の一瞬一瞬に生滅を繰り返し、一刹那前の矢は、一刹那後の矢とはまったく異なっているが、それは前の性質を「相続」しているので、あたかも同じ矢がそのまま移動しているように見えているのである。これが移動しているように見えるのは、われわれの観察器官が粗雑だからで、より微細な観察器官によれば、アナログ的移動が、パラパラ漫画のごときデジタル移動ととらえられることだろう。その最小単位は「プランク定数」である。

イデア

 と、ギリシアから仏教を取り出すとなると、こんな具合になるのかもしれない。だが、絶対に受け入れられないのが「イデア」である。

イデア」はどこにあるのか? ギリシア哲学ではそれを「形而上」にあるとし、現実世界とは区別した。だが、仏教ではそのような便利は区別は認めない。

「勝義諦」と「世俗諦」とは同じだと、仏教では説く。つまり分割された豆腐と未分割の豆腐とは等しいと主張するのだ。

白旗

 我々は「分別」によって分け隔てられた世界に、分け隔てられた物として、無常に存在している。我々が感知できるのは「分別命名」された世界であり、認識可能なのは「名前」のみである。(ここについては私は異論があるがそれはまたの機会に)

 では、仏教にとって「分別」とはどこにあるのか? 分別された無数の欠片の内向した存在の集合としてあるのか。それとも、無分別の真如の無限の劣化コピーの集合としてあるのか。だが、真如には内部も外部もないのだ。だから、この問題は保留する。

「モダン」な主体

 移動する個は、隔てられている。そして隔てられた存在世界における解脱は自力本願による以外ありえない。大部分の個を保ったまま、救済の部分のみ開く、などという便利な作られ方を、我々はしてない。「個」は強固な「我欲」を内包する。「我欲」と「社会」とを折り合わせるものが「倫理」であり、「主体」とはこの「倫理」によって「我欲」を制御しうる「個人」の謂いであり、そのような主体による社会を「モダン」と呼ぶのである。

「倫理」と「道徳」

 「倫理」とは「個」に根ざす。これは集団が群れにおいて共有すべき「道徳や掟」とはまったく異なるものだ。「倫理」は「個」を尊重するが、「道徳」は「群」のためにあって「我」を制限するからだ。

 かつては「倫理社会」が「都市」であり「道徳社会」が「村」であるとくくることができた。だが「権力」が強大になればなるほど「倫理社会」は駆逐される。「個」は「群れ」から離れようとし、結果的に「群れの秩序」を乱すことになるからだ。

 「道徳」には「意味」があるようで、じつは「無意味」である。それは、この稿のはじめのほうに書いた、「定住者と移動する者」との対比で書いたとおりである。

ツービート

 この「無意味」を徹底的に遊んでしまえ、というのが日本のポストモダンであった。「赤信号みんなでわたれば怖くない」は、そのように捉えると、時代の転換を示すメルクマールなのだ。「道徳を笑い飛ばす」こと。「意味を茶化して剥ぎ取ってしまうこと」「言語から意味を脱臼させて記号化してしまうこと」「意味という重さを捨てて軽く薄くもてあそびやすくすること」

ポストモダン

 「ノマド」が流行し「スキゾ」が提唱されたポストモダンの時代。仏教は三度、飛躍できるはずであった。移動し続けることで意味の無意味性を露呈させ、重さですら幻影であることを露にさせ、快楽消費社会を加速させることで物質的無情感による諦念を蔓延させたところで「苦は楽。楽は苦」とお題目を唱えて学徒を募るべきだったのだが、「意味」は不死身であった。人々は「軽さ」に耐えられなくなった。それは、バブル崩壊というわかりやすい不況による肉体的ダメージによる。このダメージも「快楽依存からの脱却」へと誘導すればよかったが、仏教は「東洋哲学全般アゲ」の中に埋没し、結局、タオとか、道教とか、陰陽道とかいうファッションに取って代わられてしまった。

「情報」の台頭

 そこで、急遽頭角を現したのが「情報」であった。意味を剥奪された記号に、あらたな意味を付した形態である「情報」は、実体をもたない電子記号として、ブラックボックスの中で自在に姿を変え、増殖していった。その演算装置の発達によって、「量が質」へとって変わり、「意味」を創作するようになって、ポストモダンは終焉したのである。

インターネットが作る村

 インターネットは、その発展に大いなる影響を及ぼした。かつては「個」の発信が主眼だったインターネットだったが、もはや「倫理的個」は「道徳的我」に太刀打ちできなかった。「個」と「個」をつないでいた網は、その主体たる魂を捕縛する定置網へと変貌していた。巨大な村を作るためのインフラとなったインターネットに「情報」が淀んでいる。

 インターネット上には「移動」はない。「移動」はあくまでも「個」によらねばならない。それは「意味」というモダンな重みを捨て、「道徳」という群れの足かせにとらわれない軽やかな逃走者でなければならない。そして仏教を志す者はそのような「個」でなければならないと思う。

おわりに

 また、大幅に脱線した。今回の「移動」は、「一定不変」を旨とする「真如」を是とする仏教が、「エロスの源」である「無常=移動(流動し続けるエネルギー)」というデーモニッシュな力を肯定するのはなぜか。密教において顕著な「生命礼賛」の態度が、「解脱」に通ずるというパラドクスについて考えるはずだったのに。熱くなって、そこに至らなかった。

 またの機会にいたします。