望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

芸術は「非ー意味」であれ ―『草枕』への往還

はじめに

 芸術は「非ー意味」を表現する。

 この世界は、張り巡らされた「意味」という、通常であれば堅固な地盤の上に建っているように感じられる。だが、その大地が地震によって揺り動かされるたびに、磐石と感じていた地面が、表層という卵の殻のように薄く、頼りない浮遊物でしかなかったことを、人は何度も何度も思い出す。

 人は、何度も、何度も、その事実を思い出す必要があるのだ

 そのような大地は「無意味」ではない。だが、我々が大地に付しているような意味を、大地は有さない。つまり、大地そのものには、意味も無意味もないのである。意味を付すのは、人間である。意志を投影するのは人間である。そして、そのような人間の「思いこみ」こそは「無意味」なのだといえる。なぜなら、そのような「思い込み」によって、大地が軽薄な浮遊物であることを止めることなどないのだから。

 芸術とは、大地の非ー意味性を露呈させてしまっている表現全般を指す。と私は定義する。そして、我々が立っている大地とは、張り巡らされた意味そのものなのだから、芸術はこのように再定義される。

 芸術とは意味の非ー意味を露呈させてしまっている表現全般を指す。と。

「非ー意味」はどのように見えるのか?

 前段の定義中の、「させてしまっている」とはどういうことか? なぜ「している」ではいけないのか?

 まず、前提としてあるのは、全ての存在者は、「非ー意味」に直接触れることができない、という点である。

 繰り返しになるが、この世界は、張り巡らされた意味の上に成り立っている。だから、世界に存在するモノは全て、この「意味」を感知し、認識し、変換し、活用するための器官を発達させてきた。つまり、我々は「意味」を食らって生きているのである。

 そのような存在物である我々には、非ー意味を捉える器官が備わっていない。いや、希望的観測を込めて言い換えるならば、そのような器官を活用する機能が退化しつつある、というべきだろうか。そのような状態であるから、時折襲う地震に対して、我々は常に怯え、被害が出るたびに、一生懸命にほころびた意味を繕い続けてきた。非ー意味とは、恐怖であり、終焉であり、地獄であり、闇であり、死であり、無である。我々はそのように感受してきたし、そのような教育をうけてきたはずだ。

 にもかかわらず、芸術家たちはその表現中に、「非ー意味」を露呈させてしまうことがある。それは、現実を揺るがし、統制を見出し、世界に亀裂を与える。そして、表現されてしまった非ー意味を、我々はなんとか意味で埋め合わせようと躍起になる。そのとき、意味の地平が歪められるのである。我々が認知できるのは、そのゆがめられた意味なのだ。

表現されてしまった「非ー意味」は、それを体験した我々にとって「意味の歪み」として認識される。

再び「させてしまっている」とは?

 少々脱線したようだ。なぜ、「非ー意味を露呈させてしまっている」と書かねばならないのか?

 それは、非ー意味を意味として表現することが不可能だからであると同時に、意味とは常に「過剰」か「欠如」か「誤解」と共に伝達される性質を持っているからである。これは、東浩紀さんが「誤配」という述語で示しているものと重なると思うのだが、意味は、伝える側と伝えらる側の双方で、その近似値においてエンコード・デコード(作成・解読)するという作業なくしては伝達されないという、致命的に不完全な性質をもっていることが関係している。

 そしてさらにさかのぼれば、井筒さんの「言語アーラヤ識」説に起因する「言語以前の意味」と、その一部である「言語化され認識することのできる意味」と、そのほかの大半を占める「言語化されておらず認識することのできない非ー意味」というところに行き着くことは、いうまでもない。

 意味伝達が必ず不完全なのは、元来「意味」そのものが「非ー意味」から、不器用に掬い取られているからであり、その掬い取る存在ブツが「我」として表層に「閉じて」しまっているためでもある。だからこそ、コミュニケーションが発生するのだ、という点はまた別のお話として……

 芸術家が「○○を表現したいと思った」とか「○○に対して意見を表明したいと考えた」などと、自作を解説するとき、その解説したいという自意識に、私はなんの意味も見出せない。そして、その自意識と作品とに乖離が少なければ少ないほど、つまらない薄っぺらなモノと感じられてしまう。そしてそのような作品を私は芸術とは認められず、当然、そのようなものを製作した人は芸術家とも考えられない。

 そのような自意識で説明できる部分に、不思議など何一つないからだ。

 先述した「意味」が担っている二重の不完全さのために、「意味」が意味しない非ー意味をずるずると引きずってきてしまうことがあるのだ。製作者のエンコード・デコード、体験者のエンコード・デコードの間に、言語化以前の「非ー意味」が紛れ込む。その、名づけようも、説明のしようもない、風合いというか、肌合いというか。名づけられていない感情が起動し、それは「畏れ」「恐れ」「不安」「笑い」といった、とてつもなく抽象的な対象に対して起こる感情に近似していながら、決してそれらの名づけに収まらない、鳥肌が立つような、肌があわ立つような、こらえ切れぬ便意や、失禁のあとの諦観とすがすがしさでもあるような、複合的であるようで、ひじょうに単純なカオスとでもいうような、そのような感覚を得ることがあるのだ。

 それは「痕跡」であり「疵」である。それを「意味」で糊塗してしまおうとするのを止めて、その空虚とじっくりと向き合うとき、非-意味が非ー意味のままに立ち現れる瞬間がある。芸術はそこにこそあるのだと、私は思っている。

イデアなき世の美とは

 「美」の原型(イデア)などない。これまでに存在した全人類が統計的に「美しい」と感じる造詣の平均値ととってそれが「美のイデア」に近いものだとする考え方は、とてもつまらないし、美のイデアは、不完全な投影対としてこの世に多様な形態を表している、という考え方もまた魅力を感じない。前者は「特定された場面での流行や教育の影響」を色濃く反映しているだけであり、後者は「単に、我々の眼が悪いだけで、ここまで美の基準が混乱するとも思われない」という単純な理由付けをしてみた。余談だが、この後者の理由については、唯識論、如来蔵など仏教でも同様の説明がなされることがあって、そのような考え方はやはり、つまらないと思っている。「真如」が隠されているのは、我々の意識の問題だ、としてしまうと、これはもう、あまたある宗教と同じことになってしまうからだ。仏教は「意識」においても「物」によって説明ができなければならない。唯心論とは唯物論であり、この唯物論の彼岸に「真如」がある。そしてこの彼岸というのが此岸と同じだ。というのが私の仏教への願いであるからだ。

美なき世の芸術とは

 実は、「美」を基準としない芸術において、なにを芸術とするのかが、今回のブログの主題であったが、いつものように、冒頭からその手段をほったらかしでここまで書き進めてきた。そして、今はもうその答えは出ている。

 美ではなく、不思議(驚嘆)こそが、芸術に含まれるべき要素なのである。それは、製作者と、鑑賞者の双方の大脳新皮質の暴走によってのみ伝達される稲妻のようなものなのである。それを感じられないものは、たんなるポスターであり、プロパンガンダであり、標語であり、裸体であり、落書きであり、コンセプトでしかないのだと、思っている。そして、そんなものは見るに値しない。のだが、それもこれもみな、体験した上で判断するしかないのである。

さいごに

 私はかつて、『草枕』の非ー人情論に心酔していた。非ー人情論とは、狭義の非ー意味論でもあった。その後、現実と向き合うべき、などの思い込みによって『それから』へ行き、『門」を読み、「近代人の苦悩」「女性という存在」「貧困と大志」「愛と信とは何か」などといった方面に入り込んでいたことがあった。

 しかし、ここへきて私は再び『草枕』へ回帰し、『門』という作品のもつ「意味」が、改めて問われなければならないと、考えているところである。