望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

ケンカをやめて 俳人蕪村 vs 郷愁の詩人与謝蕪村

はじめに

 1927年6月ー7月に伊豆湯ヶ島に逗留していた文士を調べていて、萩原朔太郎さんのことが気にかかり、『ちくま日本文学全集 萩原朔太郎 1886-1942 筑摩書房(1991年10月20日 第一刷)』を読んでいたら『郷愁の詩人与謝蕪村』(以下『郷愁の』)という作品があった。

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 朔太郎さんは、蕪村さんが不当な評価のされ方をしていて「写生主義」の規範的俳人と崇め奉られていることに苛立ち、その原因は、蕪村の第一発見者の正岡子規さんと、その門下の根岸派の連中にある! と糾弾する。

 そして、蕪村さんこそが真の抒情詩の抒情詩人であり、その主観(ポエジー)の本質は「郷愁」であると指摘し、個々の俳句を鑑賞しながら、これまで誰も「客観」の俳人蕪村さんの内にあった「主観」を読んでいなかったことを嘆くのである。

 私は、この昭和11年3月に書かれた文を、正岡子規さんが明治三十年に書いた『俳人蕪村』(以下『俳人』)と対照してみた。『俳諧大要 岩波文庫(2016年9月16日第14刷)』

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 すると、両者の主張にはほとんど違いがなかった。まるで『俳人蕪村』のガイドブックとして『郷愁の詩人与謝蕪村』があるかのようだった。

「客観」と「主観」

 朔太郎さんが子規と異なるのは「客観」の捉え方の一点である。子規さんは言う。

 (前略)結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること、あたかも実際の客観が人を動かすが如くならしむ。(『俳人』p.114)

 一方の朔太郎さんは、「客観」を「主観」を排斥した姿勢と断じている。

(前略)すべての客観主義的芸術とは、智慧止揚したところの主観表現に他ならない。およそいかなる世界においても、主観のない芸術というものは存在しない。(中略)もし有るとすればナンセンスであり、似而非の駄文学にすぎないのだ。いわんや俳句のような抒情詩(中略)において、主観は常にポエジイの本質となっているのである。俳句のような文学において、主観が希薄であるとすれば、そのポエジイは無価値であり、その作家は「精神に詩を持たない」似而非詩人である。(『郷愁の』pp380-381)

 「客観」をこのように理解する朔太郎さんからすると「写生」とは、

(前略)詩からすべての主観とヴィジョンを排斥し、自然をその「有るがままの印象」で、単に平面的にスケッチすることを能事とする、いわゆる「写生主義」(後略)(『郷愁の』p.383)

となる。無論、子規さんはそんなことは一言も提唱していないのだ。 

百姓の生きて働く暑さ哉(『郷愁の』p.419)

 の鑑賞において、

『これを単なる実景の写生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的なものになってしまうし、かつ「生きて働く」という言葉の主観性が、実感的に強く響いてこない。(中略)一般に言って写生の句は、即興詩や座興歌と同じく、芸術として軽い境地のものである(同 p420)』

と容赦がない。

 無論、その実景から「人間一般」を想念してこの句を作ってもよいし、そのように読むことを、子規さんは妨げてはいないものと思う。しかし私は、朔太郎さんのような鑑賞こそが、「一般論化」というつまらなさを引き寄せかねないものと感じてしまうのである。

※子規さんの後の虚子さんの客観写生となると、主客が渾然となる境地となり、また少し赴きは異なる。仏教的にはひじょうに興味深い三昧であるがそれはまた別のお話

 若さー積極

 朔太郎さんが蕪村さんに「若さ」に見出し、それは「生生した色」であり「あるだけの絵の具を使ったような鮮やかな色彩」であり「春夏に佳句が集中しているところ」である。と列挙するとき、子規さんは蕪村さんの「積極的美」を取り上げ、「壮大、雄渾、頸健、艶麗、活発、奇警」であるとし、「春夏」は積極で「秋冬」は消極であるが、蕪村さんは夏を最も好み、夏の句が多い。と指摘する。(両者に牡丹の句による鑑賞がある)

 また、

女倶して内裏拝まん朧月(『郷愁の』p.401:『俳人』p.112)

 の句について、朔太郎さんが

『春宵の悩ましく、艶かしい朧月夜の情感が、主観の心象においてよく表現されている。(中略)こうしたエロチカル・センチメントを歌うことで、芭蕉は無為であり、末流俳句は卑俗な厭味に低落している。独り蕪村がこの点で独歩であり、多くの秀れた句を書いているのは、彼の気質が若々しく枯淡や洒脱を本領とする一般俳人の中にあって、範疇を逸する青春性を持っていたのと、かつ卑俗に堕さない精神のロマネスクとを品性に支持していたためである。』

と評し、なお春の句より四句を挙げれば、

 子規さんは、『春の題を艶なる方に詠み出たるは蕪村なり。』といいきり、同句を含む十三句を表出する。おもしろいことに、この両者の選は、この一句以外は重なっていない。これは、朔太郎さん選が、

筋かひにふとん敷きたり宵の春(『郷愁の』p402)

 などの比較的、直接的表現の句を採っているのに対して、子規さんは、

伽羅くさき人の仮寝や朧月(『俳人』p.112)

 という間接的なものを採っているためと思われる。

 互いに賞賛する点は同じでありながら、双方の好みの差が如実に現れているのが興味深い。

 なお、子規さんは、これらの「積極的美」は、芭蕉さんの「幽玄、枯淡」に代表される「消極的美」(子規さんは芭蕉はこればかりではないことをきちんと断っているが)に比して邪道と目されることも多いが、優劣はない、と述べている。(cf.『俳人』pp.104-105)

漢語の使用

 二人とも、蕪村さんの句の特徴として「漢語」の多様をあげる。

春水や四条五条の橋の下(『郷愁の』p.387:『俳人』p.139)

 子規さんは蕪村の漢語の多様を、複雑な事物を述べるのに簡便なため、といい、朔太郎さんはこの句に唐詩選にある劉廷芝漢詩の一説を想起する。

 また朔太郎さんは

 行く春や逡巡として遅桜(『郷愁の』p.394)

で、「逡巡」を奇警に用いて効果を挙げていると評し、『芭蕉も漢語を使っているが、蕪村は一層奇警に、しかも効果的に慣用している』というが、この「奇警」という評価は、子規さんが「積極的美」で挙げていたところである。

 さらに朔太郎さんは、蕪村さんが漢語を多様することに、単に「便利だから」というにとどまらない理由を見出している。

梅遠近南すべく北すべく(『郷愁の』p.400)

 の鑑賞で、『思うに蕪村は、こうした表現の骨法を漢詩から学んでいるのである』と述べ、『比較的漢詩の本質的風格を学んだ者は、上古に万葉集の雄健な歌があり、近世に蕪村の俳句があるのみである』と絶賛する。

※余談になるが、朔太郎さんがなぜ、子規一派をこれほど糾弾するのかと考えると、朔太郎さんの「アララギ派」批判に根ざしているものなのではないかと感じた。おそらく朔太郎さんの『詩の原理』を読めば、その詳細や、朔太郎さんにとっての「主観客観」などがわかるものと思われるが、未読である。

単純写生句の味わい

鶯の鳴くやちいさき口開けて(『郷愁の』p.391)

 朔太郎さんの『単純な印象を捉えた、純写生の句のように思われる』から始まる鑑賞は、しまいには、『その昔死に別れた彼の幼い可憐な妹(蕪村にそうした妹が有ったかどうか、実の伝記としては不明であるが)もしくは昔の小さな恋人を追懐して、思慕と恋愛との交錯した情緒を感じ、悲痛な詠嘆をしたのであろう。』となる。

 朔太郎さんが、このように心を動かされることこそが、子規さんの言う「客観」による「写生」の俳句の成果なのではないだろうか。

複雑の美

うは風に音なき麦を枕もと(『郷愁の』p.404)

 この句を朔太郎さんは『表現の技巧が非常に複雑していて、情趣の深いイメージを含蓄させている』といい『音なき』という修辞的重心と、『てにをは』とが重要が働きをしているのだと述べる。

 一方、『俳人』のほうには「複雑の美」という項があり、ここでは蕪村さんは、和歌のやさしさを脱却して唐詩の複雑を漢語によって成立させたとある。この「複雑」は朔太郎さんの「複雑」とは焦点が異なっているが、「漢語の使用」の項に述べた朔太郎さんの意見と重なる。

 子規さんが「複雑の美」として漢語によるもの以外で示した蕪村さんの句、

うき我に砧打て今は又やみね(『俳人』p.131)

について、『芭蕉をしてこれを見せしめば網然自失言ふ所を知らざるべし。』とまで言っている。

 そして「人事的美」の項においても子規さんは『天然は簡単なり。人事は複雑なり」と言い、自分のこと以外の人事を、何の苦もなく進み思ふままに闊歩横行するかに写す蕪村を賞賛している。(『俳人』p.119)

絵画的俳句についての断章

 プレバトの俳句のコーナーを見ていると「景色を描く」「描写をする」ことが肝要との指摘をよく聞く。まったくそのとおりだと思う。

 『蕪村の俳句が「絵画的」なのは、助辞が少なく名詞が多いところによる』と、柄谷行人さんが指摘していた。(『近代日本の批評Ⅲ 明治大正篇』p.330)。俳句も言語による表現である以上、すべては「言語」の問題に帰着するということは、唯物論的にもまったく正当であり、子規の「写生」の問題とは「言語」の豊かさの問題であるとの指摘もあった。

秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者(『郷愁の』p.424)

 で、朔太郎さんは、『「酒屋」や「謡」という語を用いれば、句の情趣が現実の写生になってしまい、漢詩風の秋風落莫の強い詩的感銘が弱まってしまう。』から『(「酒肆」「詩」という言葉を用いる蕪村さんは)子規一派の俳人が解したごとく写生主義者ではないのである』と断ずる。

 しかし、用語の多彩は写生に不可欠なものであり、実際には大衆居酒屋であったとしても、そこに「理想的美」を詠むという姿勢もまた、子規さんは首肯しているのである。(『俳人』p.122)

 さらに『俳人』p134からの「用語」と「句法」の項を読むと、蕪村さんが用いる用語は「漢語」「古語」「俗語」など多岐にわたり、その接続方法として「漢文」「古文」「和歌」の方法をたくみに用いるほか、形容詞や「てにをは」の独特な使用方法などを用例をあげて紹介している。

 

 朔太郎さんが「絵で表現することのできない絵画的俳句」としてあげているのが

羽蟻とぶや富士の裾野の小家より(『郷愁の』p.409)

だ。『蕪村はこの構成を絵から学んだ。しかし(この構図で)羽蟻は絵に描けない』と。 

 絵画的であることは、写生の姿勢に通ずる。子規さんに、「写生」と「想像」という創作方法の違いが、作品にどのような違いをもたらすかを解説した文もある。大人と子供と、佳作となる打率、多彩さなどが解説されていて、興味深い。

 ところで、絵画には抽象画もある。抽象画には大きく分けて二点あると私は思う。ひとつは「具象でないものを現すもの」もう一つは「具象を徹底的に突き詰めた結果生じるもの」だ。

 俳句は、事物(客観)によって生じる心情(主観)を事物によって描写するものだと私は考える。したがって、俳句で「後者の場合の抽象画」を描写する場合もあるわけである。

 前者の場合の抽象は、安易に「心象」というものと結びつく。それを写生する、という態度については、以前に書いた。繰り返しとなるが、

 

mochizuki.hatenablog.jp

 私としては、「想い」とはすべからく「事物」に拠るものと考えているので、あえて「抽象」を推奨する気にはならないし、同じ理由で「象徴」のようなものもおもしろくはない。それらは、単に「思わせぶり」なだけである。そのようなものに頼るまでもなく、すべては「表層」に現れていると、思うからである。

 

凧きのふの空の有りどころ(『郷愁の』p430)

 朔太郎さんはこの「きのふの空の有りどころ」に西洋近代詩のサンボリズムの技巧をみ、さらに蕪村の哲学的票句として、芭蕉の「古池」の句に対立すると評する。

夕立や草葉を掴む群雀(『郷愁の』p417)

 この句は、『純粋に写生的の絵画句であって、ポエジイとしての余韻や含蓄には欠けてるけれども、自然に対して鋭い観照の眼をもっていた蕪村。画家としての蕪村の本領が、こうした俳句において表現されてる。』と評する。

一方、蕪村さんの画家としての色彩感、眼光の高さは子規さんも紹介しているところである。(『俳人』p.179)

おわりに

 愚に耐へよと窓を暗くす竹の雪(『郷愁の』p.440)

 朔太郎さんはこの句を共感に近い感覚で評価している。しかし、私にはこういう句こそつまらない。愚に耐へよ。などといわれると「引いてしまう」のである。

 今回のブログでは、萩原朔太郎さんの「郷愁の詩人与謝蕪村」を取り上げ、そこで批判されていた正岡子規さんの「俳人蕪村」をもって、対照を試みた。

 そして両者の違いはただ一点のみであるが、それは非常に根幹的な一点であることが明らかとなった。

一般に詩や俳句の目的は、ある自然の風物情景(対照)を叙することによって、作者の主観する人生観(侘び・詩情)を詠嘆することにある。単に対象を観照して、客観的に描写するというだけでは詩にならない。(『郷愁の』P.437)

 朔太郎さんは、学術的スケッチは詩にならない。と言っている。しかし、私には、顕微鏡のスケッチに一片の詩情もない、などとは思えない。そこには造詣の妙味があり、イマージュの契機があり、存在の不思議が顕れているはずである。上記の続きは以下のとおりだ。

つまり言えば、その心に「詩」を所有している真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や歌ができるのである。(同上)

 この「詩」を解説できない朔太郎さんは、やはり弱いのだ。心に「詩」を持つものだけが「詩人」たりうるとのテーゼ。その「詩」を子規さんはとことん「唯物的」に究明しようとした。唯物論者とはそういう姿勢を貫くものであると思う。核心部分で、「観念」に逃げた分、『郷愁の詩人与謝蕪村』は萩原朔太郎さんの感想文という範疇を出てないように思われる。

 俳句における「俳趣」も曖昧である。その基準を培い共有するために結社があるのだと思う。それは短歌も、もしかしたら「詩」も同様なのかもしれない。

 だから、写生するしかないのである。写生によって作った作品が「詩」になっているか否かによってしか、自らが詩人であるのか否かは、わからないのだから。

 萩原朔太郎さんがこれほど「抒情詩」をもって、各方面に論争をしかけねばならなかったのは、「詩」が結社をもたなかったからなのかもしれない。

 こうした試みはすでに大勢の方が試み、学術的にも価値のある考察があまたあるのだろう。私はそういった先行研究を参照することなく、単なる趣味として、ここに書き留めておくのである。