望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

Back skippers から A slanting slider へ ――『日本文学の大地』考

はじめに

 『日本文学の大地』という中沢新一さんの文庫本を読んでいて不思議だったのは、「なぜ、今日本古典文学を読むのか?」でした。しかし、この本はまさに「今、私が読むべき本だった」と気づいたとき、その疑問は吹き飛んでしまいました。

 

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 この本には、中沢さんがかつて語った「要素」がふんだんに詰まっています。「悪党的」、「贈与」、「捕鯨」、「エッジ」、「宿神」とか、「デーモニッシュな流動体」、「セックス=空」。これらのテーマに出会うことができ、しかもそれらは当然、現在もアクチュアルであるところに喜びを感じました。

 中沢さんの言葉は常に「待機説法」の形式で語られる「あちら側」の智慧なので、場所や時代や聴衆に応じて、さまざまな仮身として説明されます。それは経時的な運動を離れた共時的な位相にあるのですから、「古びる」などということはありえないわけです。

 あとがきには、この本の原稿は1995年から1997年にかけて書かれたとあります。あらゆる方向から干されていた時期に、角川から「古典解説」を依頼されたそうです。「自由な時間がいっぱいあった」と中沢さんは言っています。同時に、『フィロソフィア・ヤポニカ』に取り組んでいたともありますので、非常に「堅い」モノと、「柔らかなもの」、「パラノ的なもの」と「スキゾ的なもの」とが平行していたことがわかります。もちろん、両者はまったく等価なものです。

 今回は、この本を読んだ結果、かつて掲げた「バックスキッパーズ宣言」の旗印を下ろすに至った理由を、内容に沿って書いておきたいと思います。

因みに、「バックスキッパーズ」とは

mochizuki.hatenablog.jpという姿勢のことです。

源氏物語」「万葉集」「新古今和歌集

 争いによる覇権争いの結果、「意味」が二重底となった。「言葉」は大地との繋がりという「重み」を失い、人間が勝手に編集できる「記号」となり、それに重みを加えようと「権力」という足枷がはめられたのだ。だが、そのような「形而上学的な重み」しかもてない「権力」は、自らの根拠の希薄さに耐えられず、「幽玄」へと踏み込んでいくのであった。

 と、私は捉えました。

 これらの章で、長いことモヤモヤしていたことがひとつ解消しました。それは「意味の持つ重さ」についてです。

 「物」は「分別」によって生じ、それが「重さ」と「意味」となるわけですが、それは、「デーモニッシュな流動体=カオスモス=エロス」が「形」に執着することによって顕れているわけで、エロスは大地と一体のものです。天皇はこの流動する大地の力をコントロールする技術を持ち、それによって平安を護っているわけで、この限りでの「意味」は「確かな体感をもつ重さ」を備えており、容易に操作できるものではありません。それが権力の根拠でした。

 しかし、支配が広範に及び、天皇一人ではそれぞれの土地を治めることが難しくなると、この「体感を持つ重さ」は「支配の限界」を定める邪魔な枷となってきたのです。そこで、このパーソナルな空間的な制限を取り払うため、大地を都市へと作り変え、擬似的な大地に「支配者」としての歴史を証明する「文書」をもってその正当性を宣言するという「時間的支配」を実現させたのでした。そのためには、「大地の力をそのままに現す無の流動体」であった「言葉」を、もっと取り扱いのしやすい「記号」にする必要があり、そこで失われた「エロス」の残滓が「幽玄」としてうすぼんやりと残ることとなったのでした。

 いわば、権力の効率的支配構造を実現させた社会制度にあって、大地は二重底となり、意味もまた二重に張り巡らされることとなっていたのです。

 バックスキップの問題点のひとつは、「ジャンプ」です。スキップという軽やかな移動をするために大地を蹴るとき、足の下で自分を支えているものが、この「仮想的な大地であり意味であったこと」は、大きな問題です。果たして、この脆弱で薄っぺらな大地に力があるでしょうか? もしあったとしても、それは「権力」の庇護の下のジャンプではないのでしょうか?

 これらの章からは、このようなことを考えたのです。

(以下、敬体ではなく常体にて記します)

歎異抄

 記号に、重さのない形而上学的な意味を付した近代の「言葉」を用いて、しかつめらしく語られる仏教論に意味は無い。親鸞はそのように感じて「南無阿弥陀仏」のみを携えて野に下った。

 私は、「他力本願」を嘗めていた。ここに語られる「絶対他力」とは、二重底の「自我内面」を完全に捨て去って生きることなのだとわかった。そうすることで、「流動する力」を直に感じて生きること。生きることは苦しいが、その苦しみを仏に預けられる感謝のみをもって、日々を淡々と生きる。この分別無き境地は「悟り」のそれに近いのだと感じる。頭を使う必要はないし、知識は邪魔なだけだ。喜びも悲しみも不平も不満も、すべてを放下する態度。それが「絶対他力」だと思った。

 この章においては、バックスキッパーに影響を及ぼすものはない。後ろを見ないでさがっていく姿勢とは、「放下」の姿勢だからである。

東海道中膝栗毛

 本書、最大の果実がこの章である。

 私は東海道中膝栗毛を、小学生の頃、児童向けの現代語訳でしか読んだことがなかった。だから、弥次さん喜多さんがなぜ、旅をしているのか、なぜ、こんなに飄々とふざけっぱなしなのか、など疑問にすら感じていなかった。

 今回、本章を読んで改めて、「道草」と(落語の)「居残り」と並べて、さらに、江戸の狂歌の反権力性とその方法を感じながら、読み直すべきと襟を正した。

 後の章に出てくる「換喩」の重要性とあわせて、これを読んだからバックスキッパーズの旗印を下ろす決断をしたのである。では、いったいどこがそれほど目から鱗だったのか?

 弥次さん喜多さんは、「存在の軽さ」をすさまじい速度で移動する。その認識は、すなわち「権力や内面の無根拠の知」からの「逃走」であり、それらとの「闘争」方法に他ならなかった。つまり、彼らはバックスキッパーズ直系のご先祖なのであった。その上で、彼らは決して「後ろへは飛び退か」ず、むしろ、斜め横へ斜め横へとずれていくのである。一歩一歩、自らの足で大地を踏みしめながら、あらゆる「仮想的意味」が二人を捕縛しにくる寸前に、ツーッと横滑りしていくのである。

 『ショートカッツ(古井兎丸さん)』で、帰宅部の女子高校生が、崖から転落しながらも、デザートやファッションの言葉しか話さなかったように、徹底した「駄洒落」「ナンセンス」「まぜっかえし」で、「現実」から逃げている。

 間違えはならないことは、ここでいう「現実」というもの自体が「上げ底」の大地にある「張りぼて」の現実である、という事実である。そんなものと、自らの「仮想的面子」を賭けて「闘争」するくらいなら、とことん「逃走」するほうがマシである。「闘争」すれば必ず「生贄」となり、「張りぼて」を補強する結果になることが明らかだからだ。

 この現実認識。一所常在すれば、蓄積が生まれ、しがらみにがんじがらめになる。だから、一所不在を徹底する。言葉にすら、それを徹底するのだ。

 逃げ道はない。二重底の上であっても、それがわれわれの踏みしめる大地なのだから。幸いなことに、大地が二重底の上であるからこそ、自在に滑っていけるのだ、ともいえる。われわれが重さを感じるのは「エロスたる流動体」のみでたくさんだ。それ以外の「重さ」を抱える義理などない。

 バックスキッパーの問題点は、足元を信じている点にあり、自らの「重さ」に依存している点にある。そして、逃走方向を「真後ろ」に限定してしまった点にある。「真後ろ」としたのは、自分の正面にある敵を想定していたからだ。顔を突き出し、まっすぐに飛び退くことで、相手を翻弄してその場を去る。そうやって空いた負の空間になだれ込んでくる雑多な物が、敵から自分を覆い隠してくれる。それがバックスキッパーの闘争だった。だが、これは「眼前の敵ありき」の態度であった。

 しがらみは、つねに周辺を取り巻いている。背後で待ち伏せに会うことは、当然考えられねばならなかったのだ。

 だから、「スランティング スライダー」なのだ。

 二重底の大地を踏み抜くことなく、常にすり足で前後左右あらゆる方向へ滑っていく姿勢。そうやって動き続けることで、しがらみを避けていく。このとき、いわゆる「上下」動を廃することが肝要である。そのような動きは形而上が生ずる隙をつくるからである。

 逃走者は常に醒めておらねばならず、自らの身体をコントロールできなければならない。ジャンプは「希望」であり「夢」であり「願望」を包含する。それは「内面」を創出し「蓄積」を促す。だから、ジャンプはしないのだ。決して。

松尾芭蕉

 ここでは、「俳句」が上げ底を踏み抜いて直接「流動する力」と直面させようと試みる、文学の「唯物論」であると指摘する。権力によって意味を失った言葉で、それを成し遂げようとすることは、禅の「不立文字」に通ずるところがあると思う。

 バックスキッパーとしてより、「俳句」好きの心を揺さぶる章であった。

栄花物語

 エロスによる政治、権力史。冒頭の「源氏物語」との対比。

日本霊異記

 仏教が国家権力と一体となって、地域の繋がりを破壊し、共同体の倫理が壊れかけたとき、立ち上がったのもまた、仏教僧だった。彼らは「因果応報」という、仏典に説かれた論理を改良して、倫理を立て直そうとした。そこに示されていたのは、宇宙的な「カルマの法」だった。

蜻蛉日記

 「源氏物語」の変奏。

雨月物語

 幽霊、妖怪と貨幣とは同じものだというメタモルフォーゼ展開の小説。江戸に書かれた、射程の深く広い、貨幣論である。

 この章では、「変奏曲」という小説展開の形式が紹介される。

太平記

 「新古今和歌集」からの、「幽玄」PART2。および、「アルチザン」の台頭。

 技術には二通りある。それは「農」と「農業」のように、

一つは「流動する力」からの「贈与」と「敬意」の回路による継続可能な技術。

もう一つは「二重底」の上で繰り広げられる「略取」と「格差」の連鎖による消尽する技術である。後者は「情報」によって効率が計られるという特徴を持つ。

井原西鶴

 「東海道中膝栗毛」と並んで重要な章で、ほとんど続きといってもいい。

 西鶴の作品を「大いなる換喩の連鎖」とし、そのルーツを「俳諧(大句数)」に見る。また、数によって成果となす方法に、仏教の「善の集積」に通ずるとし、自然数もまた「換喩」の構造を持つと、これはおいておいて。

 「換喩」の特徴は、「暗喩」などと違って、深層心理の介入や意味への執着を引き起こさない、点にある。つまり「意味」を深めたり「固定化」したりしない「比喩」なのである。これは、表層を滑っていく比喩であり、そのような「換喩」において意味は、次の場所へ滑るための指標でしかない。まさに、滑っていくことにのみ意味があるのだ。それでいて、「換喩」は「言葉の意味」を変化(拡張)する働きを持つ。まさに、スキゾな修辞法なのだ。

 すり足で隣へ滑っていく「スランティングスライダー」にぴったりな方法が、「換喩」であり、それのみが「逃走」を可能にする。ジャンプせず、意味を意味として捉えず、どんどんずれていく。その先に何があるのか知らない。ただ、僕たちは、「今ここ」などという「フィクション」に囚われたくないだけなのだ。

おわりに

本書にはまだ、いくつかの章立てが残っているが、バックスキッパー廃止宣言としては、ここまでで十分だ。非常に示唆に富む本で、読んでよかったと思っている。

残りについては、まだ取り上げる機会があると思われるが、なによりも本書は、このブログのベイシカリーベースの一冊となったのである。