望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

平和(ピンフ)俳句を考える 

はじめに

 角川書店の『増補 現代俳句体系 全15巻」を通読して、ふと思いついたのは「平和俳句」です。「へいわ」ではなく「ピンフです。さまざまな要素が組み合わさっていながら結果的に「0(=1)」であるような俳句です。

 私は写生至上主義ですが、子規さんの「究極的には主観叙情と一体となること」を最良とする「客観写生論」なんてくそ喰らえです。

 俳句とは「在るもの」によって「無いこと」を表現するのに適した形式だと私は思います。それは、「量子揺らぎ」であり「空」であり「真如」に触れる刹那の体験にほかなりません。俳句は、そういう景色のセンサーたれ、と私は考えました。その境地を表した俳句を、暫定的に「平和俳句」と呼びたいと思うのです。

 思うのですが、それがどのようなものなのかは、いささかぼんやりしています。

 なので、今手元にあった「素十全句集 秋」(永田書房)から、ピンフ俳句に分類できそうなものを拾ってみようと考えました。今回はそんなブログです。

平和俳句例

 平和俳句にあっては、詠んだ後なるべく何も残らないことを最良とします。詰め将棋でいう「煙詰め」のような感じですが、あれは作為的に「無」を演出したものなので、境地としては間逆です。作者の感情、行動、意図などが残るのは最悪といっていいでしょう。

例)

a.秋の昼鳩鳴き止みし勝手口

b.秋の昼鳩鳴き止めし勝手口

この二つの俳句(下手なのは承知です。自作なので)の違いは、「止みし」と「止めし」です。「み」は状況。「め」は鳩の意思、もしくは作者の推量です。「み」とすると、秋の昼の勝手口という情景のなか、鳩の声も止みそこには何も残らなくなります。(秋の昼と勝手口とが残っているではないかと思われうでしょうが、この句の気分として、秋の昼の勝手口は「フレーム」にすぎないので「0」とみなしました)

 いづれも、情景の写生ですが、ピンフ俳句的写生としては、「め」よりも「み」をとります。

a.古池や蛙飛び込む水の音

b.静けさや岩にしみ入る蝉の声

この二つの有名な俳句。a.は音の残響も消え果て、池の水面のみがゆらゆらめく、平和の代表作といってよいでしょう。一方、b.は、蝉の声が蝉の声でありすぎる、という感じがして、平和ではありません。
「水の音」が、作者(観察者)が去ったのちも幽かに残り続けるような気配に昇華しているのに対し「蝉の声」は、作者がその場にいる限りにおいて継続するものであると感じられるからです。

 では、こんな感じで、素十さんの俳句を頭から拾っていって、能書きをつけ、何かが見えてくるかどうか試してみましょう。

素十全句集 秋より

※句の後の数字は順に「製作年」と「収録ページ数」を示す。

 ○海霧(ごり)の川七夕のもの流れゆく 27 p.448
 七夕のものは流れ去り、その流れもまた霧に定かではない

▲天の川西へ流れてとゞまらず 51 p448
 天の川が天に残っている間のことなので「天の川」は残っている。

草市につきし一荷は鶏頭花 11 p449
 市のにぎやかさ、たくさんの荷物があるのにもかかわらず、鶏頭花のみとなる。

▲逢坂の山の二つの盆の墓 38 p452
 墓があり、そこを参る人がいる。

稲妻の一走りしぬ盆の月 22  p449
 一瞬の閃光に真っ白になる、その刹那の永続。

流燈のたわたわと波たわたわと 32 p462
 流燈と波とがシンクロして波とも燈りともつかなくなる境地。

▲流燈の船入江より入江より 35 p462
 船の描写。

一本の木槿の花咲く門に着く 50 p468
 到着した人も目的地たる門も木槿の花に収斂する。

かたまりて通る霧あり霧の中 33 p519
 朦朧体。ターナーの水彩。形のない形を見る傑作。

花盛りなる蔓草に鎌振ふ (23) p532
鎌が振るわれる軌跡に生じる「空」。(要審議)

赤々と干唐辛子岩の上 14 p535
世界に対峙する一物の存在感。

秋の風吹きはじめるも豆畑 37 p561
 旋回する風の始まる場所を知らせかつ隠す豆。

まっすぐの道に出にけり秋の暮 3 p561
 ポンと放り出された単純すぎる一本道のみの宇宙。

見えてゐる一丘陵や秋の雨 26 p566
 雨に煙る世界には、けっして近づくことのできない丘陵が一つだけしかない。

自ら菊の乱れの径をなし (23) p597
 これは自然(じねん)の作用によって現れた「空」なる径である。

先人の碑にぬかづけば木の実落つ 50 p598
 碑、敬う心、ここに至る道程のすべてが木の実の落ちる「コツ」という音に消える。

▲稲橇の跡の乱れてあるところ 17 p611
 作者が乱れに着目しそれを指呼している。

▲夕ぐれの葛飾道の落穂かな 2 p623
 落穂が、葛飾道の夕暮れにのまれて、単なる添え物となっている。

おわりに

 写生の人、高野素十をもってしても、今の私のぼんやりとした理解で拾える「平和(ピンフ)俳句」はこれだけでした。

 ▲で、なぜこれが「平和」でないのかを記しておくことで、今後の指針としました。さらに、例句を増やして、堂々たる「平和俳句論」を打ち立てられればと考えています。

そこに共通してあらわされている、あらわせないはずの境地とは何か?

 ライフワークが増えた気分です。

追伸

 ちなみに、私は「平和俳句」のみがすばらしく、それ以外は嫌い、ということでは全くありませんので、誤解なさらないでくださいね。私は「写生俳句」が大好きです。その中で、「平和俳句」に分類できるものがあるのではないか。というスタンスです。