望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

時間を止めることと、時間のない世界で移動すること

はじめに

先日、こんなことを書いた。

 「真如」もしくは「空」が分節することでこの世は始まりました。

「始まった」というのは文字通り、時を刻み始めた、と言い換えることもできるのですが、この「時を刻む」という観念こそが「分節」されたこの世を起点とした逆遠近法なのだということに、留意しなければなりません。

 私は「時」を中心とする観念にとらわれていては、決して「この世」の起点には触れられないのだと考えています。

 イスラムの哲学における「脈動」、中国における「龍脈」、ヨーガにおける「呼吸」。これらが「存在」の原点であることはほぼ間違いがないと思います。

それを私は「動態論」の範疇に落とし込んで考えたいのです。そこで重要なことは「無常」の捉え方です。

 「無常」とは、「存在は持続しない」ということです。「存在」とは「モノ」であり「分節」です。そして私にとっての「分節」とは「流動体の切断しえない断面の顕れ」ですから、「無常」とは「(モノという)不動不変の様態は無い」ということになります。

 「流動体の切断しえない断面」と唐突に宣言してしまったので、補足します。

 この世とは流動し続ける(アーラヤ識における)「真如」の顕現部です。それは全体として流動し続けており決して静止しません。

 しかし、「意識」はそのような「流動」を直接捕らえる器官をもちません。アーラヤ識は、その流動し続ける様態の刹那刹那をコマ撮りするようにし、この世を捕らえなおし再構築します。

 その世界観を基盤として、マナ意、意識、が組み立てられていると考えます。

 ここに「時間」という観念が発生してくるのです。

 世界を留めるために時間がある。時よとまれ、君は美しい。というコピーが昔ありましたが、時とは流れるものではなく、留めるものとして、いわば「流動体を微分する」ために導入された手段だったのでした。

 そして、このように留めることができないはずの「全体」をぶつ切りにした結果、認知可能となった「モノ」が、「常在」であると信じているのです。

 といういことで、今回は、「時間を止める」ことについて、考えてみました。

 時間を止める

 昔から「時間よとまれ」というと、周囲の世界がピタリと静止し、その世界で好き勝手する、という空想は我々の心を捉えて止みません。しかし、時間が止まった世界で、自分だけが自由に動けたり、静止しているモノを勝手に移動させることは不可能だと思います。

 時間が止まった世界とは、「あらゆるモノが静止した世界」です。そして私は、「時間」とは「物質の移動を測る計測単位」だ、という立場をとっているので、「あらゆるモノが移動しない世界」という風に言い換えることができます。

 時が止まった世界では、血流も神経パルスも静止しています。気体の粒子も静止しています。それはもはや気体としての性質を失っているといえます。しかし、静止した人間は呼吸の必要がありませんから、それによる酸欠の心配もありません。なにしろ、一切の代謝が静止しているのですから。

時間外に存在するモノの導入

 仮に、このような世界で時間停止の例外存在として自由に動けるモノがあったとして、静止している人に触れたとしたらどんな感じがするでしょう?

 肌を押したとき、肌は弾性を持つでしょうか?

 私は低反発枕のような感触なのではないかと思います。

 実は先ほどまで、大気も何もかもが完全に静止し、固定されているから「石」のようである、と考えていたのですが、外力が働けば移動可なのではないかと、考えを改めました。無論、指で押されて凹んだ肌が弾力をもって元に戻ることはありませんが、強制的に凹ませることは可能だと考えます。

 その場合、外力によって「移動」が生じた部位にのみ、時間は経過しています。モノを移動させれば、それに付随して玉突きのように移動することを余儀なくされる範囲では、時間が経過していることとなります。

時を動かすのに必要な力

 ただし、静止状態のモノを、関連する全てを押しのけて移動させるのに、どのくらいの力が必要となるのか検討もつきません。大気の抵抗が思いのほか大きく落ち葉一枚移動させるのにも膨大な力が必要となるのだとしたら、やはり当初の考えのとおり「全ては石のように固定されている」と考えてもよいのかもしれません。

任意の空間の時間を停止させるには

 これらは、時間が静止した世界で、時間の外を自由に動ける存在を過程した場合の思考実験です。

 この仮想的存在を実現させるためには、先に記したように、空間を限定して時間を止める(つまり、自分だけは動けるように時間を止める)ことが可能かどうかを考えて見なければなりません。つまり、空間を限定して、「移動を停止させる」ことが可能なのかを、です。

 しかし、「時間」というモノそのものを操ることができるのなら、想像を働かせることができるのですが、「時間そのもの」というものは無い、という私の立場では、関係するあらゆる物質の「移動」をひとつひとついちいち静止させなければならず、どうすればよいのか検討もつきません。おそらく「外科的な措置」をほどこすしかないのだと思うのですが。

勢いで動くもの

 全宇宙の時間を静止させた場合でも、重力に引かれて落ちていた途中のボールの場合は、その落下エネルギーと、移動させるのにかかるエネルギーとの関係によって、そのまま落ちるものと、空中で静止するものとに分かれるのかもしれません。すると、そのボールに関してだけは時間が経過していることになります。解き放たれた矢や、内燃機関なども、パワーがあれば「静止」の宇宙にあって移動することができるということになるのでしょうか。

時を動かすエネルギー

 と書いていて、これは、ごく普通の世界の話なのではないかと思いつきました。

 私たちは日々、移動しています。移動によって生活し、移動によって生命を維持し、移動によって老化していきます。そして、移動するエネルギーを失ったとき、「死」という「静止」が訪れる。(補足:この「静止」は「時間を認知する意識の停止(マナ識?)」を意味しており、「時間の停止」ではありません。我の他のモノが移動を続ける世界が存続する限り「時間の観念」も続いています。この「観念」はいわゆる「意識」が働いていない(と思われる)無機物ばかりになっても、失われることはありません。つまり、「移動」=「観念の源泉」考えることもできるわけです。(無機物の移動とは、たとえば劣化や化学変化などが考えられます。変化の度合いの大きさが時間経過の速度と感じられるのだとすれば、石の時間観念は人間に比べてひじょうにゆったりとしたものになるのでしょう。「輪廻の時間」についていずれまた。)

 やはり私たちは、「時間の静止した(つまり時間のない)宇宙」に暮らしている。そこにおいて、空間を移動することによって「時間」という観念を生み出しているだけなのではないかと。

おわりに

 重要なのは「移動」なのだと思います。「移動」とは「隔たり」なくしては成立しない現象です。隔たりとは「分節」によって生じた状況です。

 私は「空」の分節によって「意味」が生じ、それが「名」と結びついて世界が始まった。という考え方に、ずっと疑問をもっていました。「空」を原始言語による意味の塊だ、とするのは、「空」と「意味」との次元が食い違っているのではないかという感じです。つまり、「意味」から「物質」が生じるというプロセスに疑問があったのです。

 このような考え方をすれば「モノ」=「幻」というところに行き着くことになるでしょう。最終的には、私も「モノ」は「幻」というところに落ち着くかとは思うのです。(なにしろ、無から有が生じる仕組みがブラックボックスですから)

 ですが、「空」が分節されて「意味」が生じる。というのは、階段を何段か飛ばしているような気がするわけで、「空」が分節されて「隔たり(=移動=時間)」が生じる。というほうが、なんだか近いように思う。というのが今回の内容でした。