望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

言葉と意味と音と無意味

はじめに

 分節により「意味」が生じた。ただし、まだそれが「意味するモノ」は生じていなかったし、「意味を表すモノ(音や記号)」なども生じていない状態だった。「そのような『意味』を認識するモノ」も生じておらず、分節された意味の間に序列も生じていなかった。

 そのような原初の「意味」を「原意味」と仮に呼ぶことにする。

 ところで、そのような「原意味」に、どのような意味があるというのだろうか?

源泉としての「原意味」

 「原意味」は流動する。意味するモノも、自らを入れる器もないまま、絶え間なく境界線を変動させながら流動し続ける「原意味」とは「境界線」と同義であった。ある「原意味」が、隣の「原意味」と区別可能なのは、両者を曖昧に隔たれる「境界線」があってこそだ。仮に、隣り合う両者がまったく同質であったとしても「境界線」さえあれば、そこに違いが生じる可能性が高まり、やがて明確な「違い」を蓄積していくことになるだろう。「境界線」によって「伝達」に時差が生じ、歪みが生じ、偏向が生じるからである。

 境界は細胞膜のように柔らかで、開かれており、元来は等質であった細胞が分割され続ける間に、膜に包まれた一つ一つに個体差が生じてくる。と捕らえるならば、「真如の分節」とは「卵の細胞分裂」のようなものであるという、魅力的なパラフレーズが可能なようにも思われる。

 このような考えかたについては、中沢新一さんが『フィロソフィア・ヤポニカ』で、詳細に取り上げていた。そこでは、「存在論的」な文脈であったが、井筒さんも再三書いているように、存在論も宇宙(発生)論も、言語(発生)論も、「無から有」という方向性をもつ問題に関しては、系統発生を繰り返すと考えてもよいと思われる。

分節に始まる

 それは、空間の始まりであり時間観念の発生でもある。物質の源であり、意味の源泉であり、我の萌芽である。ビッグバンであり、細胞分裂であり、格差の発生である。

「原意味」とは、単に「言葉の意味」にとどまらず「この世界に意味を意味で埋め尽くそうとするモノの源泉」なのである。

「意味」と呼ぶ意味

 このような状態を「原意味」とよぶ意味。それは上記のようなほとんど全ての源泉である「原意味」の派生物のなかから、とくに「言語」を取り上げようとしていることを表している。

抽象的思考とは

 人間は、考えることも、感情も、世界認識も、意思疎通も、その大部分を「言語」に負っている。言語とは意味と意味するものとの両方を表すことができ、その意味するものが現実に存在していなくても構わない、抽象物を表すこともできる。それは「原意味」の一つ一つが区分していたものが具象物ではなく、いわば抽象物であったことに起因する。さらに言えば、意味が、世界のあらゆるものを意味することが可能なのは、全てが「原意味」から派生しているからなのだ。それは、空間も時間も科学も生命も感情も、あらゆるモノを含んでいる。

 意味が示す具体的な対象の有無など、「原意味」から捉えれば「無意味」な区分だ。もともと、全ての意味は、対象物を持たなかったのだから。

意味する「もの」を捨てる

 そう考えると、「無意味」にこそ価値がある。この「無意味」は、「シュール」や「ナンセンス」といった「意味の脱臼」を狙った「無意味」さではない。「正規の意味」を前提とした「脱ー意味」は「意味するもの」を捨てていないからだ。

 井筒さんの『コスモスとアンチコスモス』の中に、イスラム経典の内的理解、というような方法がかかれていたと思う。(この本についてはまた後日)。通常の理解とは、書かれている言葉の意味を読み取ることだが、内的理解の場合、言葉の意味を捨てて、音律に没入していくのである。あたかも、マントラ百万遍唱えるかのような。だが、マントラのようなミニマムな繰り返しではない、神の息吹、もしくは鼓動としての音律を自らに同期させていくことで生じるイマージナルな理解を試みるものだという。

 かつて聖書をそのように理解しようとする宗派のあることを聞いたこともあるし、部教経典なども、「漢訳」されたものでは「意味」が強くなりすぎると、『ブッダの箱舟』で指摘されていたことも思い出される。

また、有名な法華経の『題26 陀羅尼品』に「呪」としてでてくる、おどろおどろしく感じられる意味不明(以下に参考サイトへのリンクを貼るが、そこでは、きちんと意味を解説されている。だが、そのような意味に捕らえてしまってよいものか、という気もする)な「文字」の連なり。いや、それは「文字」としてより「音」として感じるべきなのかもしれない。

www.hokkeshu.jp

jouan167.jimdo.com

james.3zoku.com

さいごに

「無意味」に邁進するためには、段階を踏む必要があるだろう。私たちはあまりにも、さまざまなものに「意味」を求めすぎているし、「意味」を見出そうとしすぎているし、「意味」に安住したいと願っている。「言語」という「意味」を取り扱うのに便利な「記号体系」を確立できたばかりに、それを安易に用いすぎて「感情」を掘り下げるつもりで、むしろ表層を複雑化させ、社会を複雑にし、システムを複雑にし、複雑になってしまった社会を円滑に進めるために、さらに法律などの複雑な意味を積み重ねてきた。「理解」とは「言語の言い換え」に過ぎず、その「言い換え」はとどのつまり「循環論法」としてしか成立していない、にもかかわらず、それでこの複雑化させた社会が動いている。いや、動くことを制限し、むしろ固定化させようと躍起になっているように思われる。

 だから、内的理解の方法は有効である。それは「音律」に感情を沿わせることである。見聞きした「言葉」に付された「意味」を無視し、言葉を「記号」とし、記号を「呪」とのみとらえて、「無意味」を恐れることなく、笑うこと。

 音は振動によって伝わることになっている。振動とは変化を及ぼす運動である。あらゆるモノの固定化をもくろむ「意味」には無意味な動態たる「音」で対抗する。

 先週は、そんなことを考えていた。