望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

私的華厳2 カオス・ノモス コスモス・アンチコスモス カオスモス

なんとなくはじめる

井筒さんの「アンチコスモス」は「コスモス」から捉えた「カオス」の性状を示す。

コスモス→カオス=アンチコスモス

中沢さんの「反コスモス」は「余剰せるコスモス」だが、それは「ノモス(差異の共時的大系)をはみ出したコスモス」ではなく、即時に「形=存在=モノ」に収束しつつ常に流動する「存在エネルギー」そのものが、モノに収束するまでの時差によって垣間見える。また「モノ」が回収しきれない「余剰」の残響を指し、それは、ノモスからは「カオス」と捉えられる。

ノモス→反コスモス(=コスモス)=カオス
 このように、カオスとコスモスとが同一であるような認識をカオスモスと呼んでいる。「コスモスとカオスとの貫入」それは「真如」であり「ダルマ」である。

井筒さんは、カオス(混沌)⇔ノモス(分節)の軸で捉えて、この「⇔」に、「言語アーラヤ識」という「ロゴス」の界面を見る。

浅田さんは『構造と力』において、ホモ・ディメンス(錯乱する人/モランによる)は、自らの自然からのズレ、方向=意味の過剰(サンス)が「恣意性のカオス」としてあらわれ、その恣意性の限定(ソシュール)としての「文化」の秩序を構成しなければならなかったと、遡行的後付けを報告する。

つまり「カオス」とはあくまでも「人間の大脳新皮質的暴走」の認識であって、二重に恣意的な差異の共時的大系の天蓋として「コスモス(聖)」を、柱として「ノモス(律法・文化)」を立て、回収しきれなかったカオスを「サクリファイス」や「ポトラッチ」という儀式によって構造化しようとしたということになる。

このロードマップの次にくるのは「脱構築」であり、それは「コスモスーノモス」構造を「デコデ」し、記号⇔情報という人工的ピュシス(反コスモスの活動)による「熱い社会」をみているのだった。

【ノモス】(分節)=類

言語なき分節。可能体。ES細胞。量子もつれ

【ロゴス】(弁別・理性的把捉・直観的把捉)=言語

人間がロゴスによって見出した「カオス」とは「森」であり「闇」であった。だが、それは単に「未分類なモノ」でしかなかったと思う。「カオス(=未開)」

「ロゴス」を基底とする「ノモス」から遡行する場合、当然カオスとはそのようなもの(未開)に矮小化される。この矮小化されたカオスは「科学」のフロンティアになるのだが、それを究明していたったところで、カオスモス=真如には、到達不可能である。なぜなら、「モノ」から始めたものは「モノ」を出ることはできないからだ。

解脱とは「モノ」を出ることであり、「カオスモス」と混ざり合うことを意味する。

「真如の分節(カオスモス=ダルマ)」から「全て」は始まる。なぜこの「分節」が起きるのかは、あいかわらず保留中だが、それが「ダルマ」なのだ、としておく。

それは起きた。そして我々は結局、そこから遡行して考えるしかない、という点では科学と同じである。

「そういったことは解脱には無関係です」ブッダは述べた。(無記)

必要なのは「実践」だからだ。

ここに一神教「信じる」が入り込む余地が生じるのだが、仏教はそれを裏側から要求する。すなわち「徹底的に疑い、徹底的に学べ」と。

それは、「ノモス」を疑うことであり、「コスモス」を出ることであり、「カオスモス」を流入させることに他ならない。

「我疑う。故に我非ず」というところまで、脱構築する姿勢。それこそが仏教であり、ホモ・ディメンスたる意義であると、思っている。

付録

輪廻する主体はない。異熟識といわれるアーラヤ識は、薫習によって遺伝する。つまり全人類が解脱できなければ、その残り香によって、またアーラヤ識は生じる。仏教は慈悲によって、「自他」の区別を認めない。その意味で大乗仏教は正しい。「苦」を滅するためにはカルマの全てを滅却しなければならない。これは、統制的理念である。

付録2

言語を「二重に恣意的で共時的な差異体系」と捉えるのは、現在の言語システムを前提とした仮定である。差異の体系は複数の要素がなければ成り立たないが、それは経時的に増殖していくことが可能な体系でもある。実際のところ、モノとモノとの大同小異、小同大異を見出していくことによって命名がなされている事実がある。(分類)ノモスとは「分類」であり、カオスとは命名せざる形態への恐れである。その意味で、言語はヴィトゲンシュタイン言語ゲームであるとの指摘は正しい。次々と差異を見出す体系であること。見出された差異によって、差異そのものが変化し、それによって命名が変化すること。

 また、このことから「全てはことばである」というあらゆるテーゼは拒否される。まず分節がある。それは事実だ。そして分節は命名される。それもまた事実だ。したがって、「ことば」は差延する。