望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

内ー外 を捨てて考える

はじめに

 『意識と本質』井筒俊彦さん、を手引として、ことあるごとに立ち返る。


 このところ「俳句」「写実」のことを考えていることが多かったのだが、今回読み直し始めて「写生」に関する重要な論考と、本居宣長さんと、松尾芭蕉さんを本質論批評として読む姿勢に、興奮したところである。


 そこで今回は、「写生」が見い出す「本質」とはどういったものであるか、「本質」という定義から改めて整理し、「個的本質」と「般的本質(私としては「類的本質」と呼びたいところであるが、「類的本質」は、マルクスさんや、フォイエルバッハさんの述語として流通しているので、そう呼ぶわけにもいかないようだ)」のいづれを「俳句的本質」として見出すべきか、また、それを踏まえて「写生」と「季語」との間の、二律背反性を炙り出し、「季語」が「事→般→実」へと拡張されていく様子を、つぶさに検証してみたいと考えていた。


 しかし、その端緒につく以前に、私は、ある「前提」に引っかかってしまって、にっちもさっちもいかなくなってしまったのだ。

内ー外 構造問題

 「意識」「感情」「言葉」。

 これらを取り扱う時、多くの場合、「内ー外」という構造を前提した「モデル」を、当然の了解事項として採用している。「意識の内部」とか、「内面を吐露する」とか、「内部から外部へ意識を向ける」とか。

初期の、つまり現象学時代のサルトルは、意識の本源的脱自性を強調して、それを「自分の外へ滑り出すこと」であると言い、「意識には内部なるものはない。意識は己れ自身の外以外の何ものでもない。意識を意識として成り立たせるものは、この絶対的な脱走であり、固定した物であることの拒絶だ」と断じた。(p.10)

 現在の私には、この「内ー外モデル」は自明とも思えなかった。

 むしろ、このモデルが、比喩としてあまりに優秀に機能してしまうため、これを用いる者が、比喩であることを失念し、そのモデルをあたかも証明済みの事実であるかのように用いて、論を進めていってしまう、「誤謬を産む源」だと、考えるようになっていた。
 実際、この「内ー外モデル」は、「浅ー深モデル」や、「上ー下モデル」なども呼び込んで、実に手軽に、実に様々なものを「構造化」してみせている。

だが以上はあくまで表層意識を主にして、表層意識の立場からの発言であって、深層意識に身を据えた人の見方ではない。むろん、サルトル的「嘔吐」の場合、あの瞬間に意識の深層が垣間見られることは事実である。(p.14)

 

表層、深層の両領域にあたる彼の意識の形而上的・形而下的地平には、絶対無分節の次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに現れている。(p.16)

 

高次言語の問題を別とすれば、最初に述べたあの本居宣長の、概念的普遍者を遠ざけて、ひたすら感動の深さのみによって「物の心」を追求しようとする態度も、「意識のピラミッド」の深部に存在者の実在的リアリティーを探ろうとするリルケのそれと、類似的には、同種のフウィーヤ探求であった、と見ることもできよう。(p.53)

 

 「内ー外モデル」においては、たいてい、内が外より純粋で、支配力も大きい。内は、神秘的な力を外に対して発揮しうるが、外はその力を十二分には体現できない。


 「内」は「深さ」としても捉えられ、より「高」次なものとして扱われる。(これは、単に上下の距離をモデル的に逆立ちさせたて用いているのである)

 「深さ」は「広さ」であると同時に、「海溝の深さ=山の頂」のイメージも併せ持つ。これは、「海=山」の、宗教的イメージに負うところも大きいのかもしれない。


 さらに、「重ー軽」は、「奥ー表」に一致し、「下ー上」のモデルに合致する。地獄と天国の譬え、80年代の意味という重さを捨てて言語が記号となって軽佻浮薄に踊るバブル期。とは、このイメージの引用だった。

 私は、こうしたイメージに依って思考することをやめるべきだと考えている。
※「内面」という位相そのものに、疑念を抱くようになったのは、存在とは徹底的に唯物的な共時的縁起関係によるもので、それがユクスキュルの環世界であったり、華厳経の事事無礙法界、南方マンダラの「不思議」、『春と修羅』の中沢新一さん的デーモン、絶対一である「真如」によって、説明可能ではないのかと思うようになってからのことである。


内と外

 人間の内面にあるのは内臓だけだ。そもそも、身体は、それほど厳密に「内外」を区分してはいない。エネルギーの出し入れが外界との間に必要である身体は、決して閉じることはできないからだ。


 袋に外側と内側とがある。そのことに異論を唱えようというのではない。だが、その場合でも、内側を、内側だと認識する時には必ず、内側は、認識できる状態で外面化されている、という事実を、忘れるべきではない。
 紙袋の口を開いて、中に入っているリンゴを見るとき、開いた口によって、外と内の区別は失われている。外科的切開によっても、内視鏡によっても、エコーによっても、見えないはずの内部を見ている時、それはかならず表層、または表層的である。
 この、内側の表層化の経験の記憶によって、改めて、不可知な内側に何ものかが隠されているという推測が可能となったのであり、その外面に晒されていない場に位置するモノが、外面を支配するという、「内側への信仰」を支えている。

 私のこの「内面への不審」は、柄谷行人さんの「内向の世代」批評に依るところが大きい。(わたしは、柄谷さんの、ゲーデル的論理展開に驚愕し、ファンになった)

内向の世代」の姿勢は内面の芳純さを欠いているがゆえに内向し、空虚を言葉の綾で埋めていくマニエリズムというわけだ。(『終焉をめぐって』「漠たる哀愁」)

 

 

空間とは移動である

 内外、上下。これらは「空間モデル」である。なぜ、「空間モデル」によって、人間の活動の大半が説明できるのか? 

 それは「存在」が「空間的存在」であることに起因する。

 モノは、必ずある空間を占める。それは全空間の分割された部分である。この分割された部分は、他の部分を限定的にしか知覚することができない。
 限定的な知覚によって認識される世界を、広く認識しようとすれば、移動しなければならない。
 部分的に、順番に、認識される世界。そこには、前後左右が存在し、時間差が存在する。Aを通過しなければ到達できないBがあり、Bをひっくり返さなければ、触れるこの出来ないCがある。
 こうした存在自体の構造的理由によって、「空間モデル」が有用なのである。

簡略なモデルによる複雑化

 しかし、このモデルによって、元来、単一平面上の皺や襞の出入りであるにすぎないこの存在世界を、過度に複層的なモノにしてしまっている可能性がある。

 深層心理も、ピラミッド構造も、実際、そのように空間を占めていたという事実は観察されていないのだ。
 表に出てこない隠された心理、夢がもたらす無意識の在処。そういったものによって「内面」「深層」の根拠とすることは本末転倒である。それらは同一平面にあるが、少し遠くにあって、認識するのに少し時間がかかるというだけなのかもしれないのである。

境界に発生する

 あらゆるものは、境界という表面に現れる。

 世界はモザイクのように境界を接した雑多な物質のタペストリーである。境界における反応が全てだと、私は考えたい。

 内部から外部へ脱出する意識、は比喩にすぎない。それは最初から境界に貼りついている。境界を離れることもなく、境界から引込むこともない。


 存在とは、渦のような散逸構造体である。渦には内と外があるように見えて実は内外は一体であるし、多層的に見えるが、単一平面に生じた襞に他ならない。


 コミュニケーションとは、内面から生成された感情や意識を、態度、表情、しぐさや、文章や、言葉などを外に発することによって、相手がそれを内面にとりこんで、影響を受け、同様のことを相手に返す、などという過程を辿るのではなく、互いに接している境界での反応であると考えるほうが、自然だと思う。

表と裏

 あらゆる二項対比を避けながら、唯一、捨てきれないのが「表ー裏モデル」である。この世界は、単層の襞である。だから、その襞や皺を全て伸ばせば、一枚の板のようになる。そのとき、この板には、「裏」が存在することになるからだ。
 そこは、巻き上げられた次元が収納される場か、グラビトンのみが出入り可能な場か。表からは一切干渉できない場か。そんなことを、現在は考えている。