望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

実用性とはのりこなす術 ―『磁力と重力の発見3』

はじめに

長いことかかりましたが、読み終えました。
『磁力と重力の発見3』

www.msz.co.jp

このブログでも、散発的に感想文など書いていました。

 

mochizuki.hatenablog.jp

mochizuki.hatenablog.jp

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 実は、前のほうをほとんど忘れてしまっていて、きちんと消化できているとはいえません。しかし、実際に触れていないようにみえるのに他の物体に影響を及ぼす、古代から知られていた力「磁力」を、人々はどのように捉えてきたか。という問題意識の、すばらしさに、終始、感心しながら読み進めました。

全体を示す一つのこと

「磁力」という明らかに存在する「不思議」。その遠隔力の不思議さは、現代に生きるわたしにとっても「驚異的不思議(ワンダー)」であり、これに比類する力は、もう「サイキック(PK)」だけではないか、と思います。

超自然的。人智の及ばぬパワー。その力はある種の崇高さすら纏って、その他の「奇跡(奇蹟)」的パワーをももたらしてくれるはず、との願いにも似た確信が、迷信的に広まっていくであろうことは、単に「無知」というだけで片付けられることではない、人間の自然な傾向ではないかと思います。

「磁力」に着目することで、博物学、哲学、自然学、医学、数学、地学、航海術、宗教、といった多岐にわたる分野を横断的する「近代科学史」が描かけること。近代科学とは「磁力」をめぐる物語であると、言いたくなるくらいに、全体を示すのに好都合な「対象」だったのだと思うのです。

小説においても、このような「対象」を選定することが最も重要なのではないか、と思いながら、かつて見た、青春舞台(高校演劇)のことが思い出されるのでした。

 

mochizuki.hatenablog.jp

感想文

以下は他のところに書いた感想文です。

 全三巻。ひじょうに読み応えのある「魔術(宗教)科学史」だったと思います。
 ラストは、フック、ニュートンといった『仮説、実証(定量計測)、応用』と偉人によって近代科学の方法が確立しました。
 感想としては、近代科学とは「なぜかは分からないが、因果関係は関数的に解明され、その応用も可能であって想定外の振る舞いが生じなければ、事実と証明される」学問であるということでした。
 数式によって示される物体の振る舞いさえ正確に実証できさえすれば、その仕組み(なぜそうなるのかについて)は生気論、機械論、運命論、神、などのいかなるモデルを当てはめてもよいのだということです。
 私たちが、テレビを見られるのも、SNSを使いこなせるのも、電車の乗り継ぎができるのも、七夕の空の逢瀬にロマンを感じるのも、星占いも、風水も、血液型も、天変地異にアマビエが出てくるのも、科学とは無関係な位相にあるのだということです。
 ニュートンは生涯の大半を錬金術師として過ごした人で、万有引力の源について「神」を持ち出すことに何の抵抗ももちませんでした。
 科学とは、与えられた物を奇跡(もしくは当たり前のこと)として、思考停止(運命だ。神の思し召しだ。天罰だ、など)させてしまうのではなく、定量的計測によって変化を関数化して、応用(実用)可能な技術を確立すること、見えるものがあれば、その周辺の見えないものをも予測し、理論的に実証できるようにする、ための方法なのだということです。
 つまり、科学とはその出自から一貫して「魔術」なのだということが、とてもよく理解できたシリーズだったと思います。

世界モデル

 近代科学は、「在る」ことを「観測」に基づいて「仮説」を立て、それを厳密なる「実験」によって「数学的に実証」することで「証明」していく過程です。そしてその厳密性は、わたしの想定のはるか彼方の桁数において、検証されているものと思います。

 それでも、科学は「在る」ところから始まるものであり、実証された世界の「モデル」はつねに「反証」「変更」される可能性をもった仮設として存在しているのだと思います。

のりこなすのみ

 わたしたちは、馬の能力や生態を知り、血統を管理することでさらに能力の高い馬を生み出すことができますが、馬がなぜそのような形態で、そのような生態で、そのように存在するのかに答えることができません。

 進化論ではない存在論という観点に「科学」は立ち入りません。近代科学的態度を広めたのが、「職人」であったことは、科学の本質が「実用性」にある、ということを意味しているのだと思います。

 あるものを乗りこなす術を研究する。そのための態度が「実用科学」なのだと思いましたし、それは十分な成果を挙げてきていると思います。それが「資本主義のドライブ」に利用されることも、出自を考えれば当然といえるでしょう。

 しかし、「実用科学」と「魔術」と「民間伝承」との差とは、「再現性の確率」「予測と結果の整合性の確率」の差に尽きます。この差が、あまりに圧倒的なため「科学」は「魔術」などとはまったく違うものとわたしたちは認め、「科学的ー非科学的」といった対立項を判断基準にしたりします。

 しかしそれは相対的なのだということを、わたしは改めて実感しました。そしてその意味で、わたしたちは、古代ギリシア以前、狩猟と採取の時代から何もかわらない世界に連綿として「在る」のだということ、自然の驚異(ワンダー)は、その本質をいささかも変質していないのだと思いました。

おわりに

科学とは因果律を究極まで検証するものだと思います。スーパーコンピューターによって膨大な演算を繰り返すことで、世界を関数モデル化することが目的ではないかと思います。

 縁起は因果とはまったく異質なので関数化は不可能なのだとすれば、縁起とはどのように働くものなのか。ということで、『レンマ学』などを、読み進めないといけないなと思います。