はじめに
本書のタイトルをみて、読まねばと思って読んだ。以下はその感想とまとめ。
鏡は皮膚とは違う。見られるモノである、という一点を除いては。
シュミラークルにまつわる議論は、だから退屈だ。むろん本書はそのような退屈さは最小限に留めている。「鏡」というタイトルを冠した以上、触れておかねばならないのだ、という程度に。
表面
「鏡」が問題なのではない。
「鏡の表面」こそが問題なのだ。「鏡」の表面は変化しない。対象を克明に写し取る鏡の表面には襞ひとつない。歪んだ鏡は真実を歪めることを意味するかもしれないが、そもそも鏡自体が真実を写すわけではない。それは左右逆であることで自らの如何様具合を予め表明してはいないか。
皮膚は皺をもつ。襞をもつ。皮膚は対象を襞深くに取り込んで、皮膚自らを変化させるだろう。皮膚は、たとえばすべてを風であるかのように感ずる。鏡が光として捕らえるものを。
だから、鏡が「写すもの」である限りにおいて、それは深さを無意味にする。写すためには表面だけがあればよい。鏡は襞をもたない。だから、重要なのは「水鏡」なのである。そこには、写すことに無関係な深さがある。ナルキッソスは自らの姿にむかって接吻を試み、その「写すこと」に無意味な深さに命を絶たれる。だが、この深さもまた、表層にすぎない。ナルキッソスは水に同化することができない。皮膚と水とは互いに表層のまま、互いに退け合っている。
だから、いかに鏡の表面が「霧」や「水」のようにたゆとうたとしても、その内部に入り込めると考えるのは誤りである。『ふしぎの国のアリス』は大地の表層にうがたれた穴に落ち、その内部に入り込んだ。だが『鏡の国のアリス』は、ついにその内部に入り込むことはできず、ただひたすら鏡の表面に映し出された襞のあわいを右往左往するばかりであることは、「成長」をもって説明されるべきだろうか。
写す
「鏡」とは「写す」ものである。それは必ず「部分」を写すものである。それは、部分を切り取ることに通ずる。切り取られたものを見ることはタブーを構成する。本書には、切り取られた首、切り取られた乳房、切り取られた性器に関する神話が召還され、そられは超自然的威力を発揮する。
メデューサの首と聖骸布とは同じ性質をもつ。また宗教が偶像を禁止する理由もまたそこに発すると考える。
見る
だが、このタブーはすべからく「見る」ことを禁ずるものである。「見た」ことによって、恋人と別れ、命を奪われ、正気を無くす。そのとき、「鏡」という具体物はもはやどうでもよいガラクタである。そして、もっぱら「見る」ことによって「描かれる」絵画が、「鏡」と同じ性質をもつことに思い至る。それは、画家が写し取った表層であり、ただの表層であるという点で「鏡」そのものなのである。
さまざまな「絵画」に関する考察。だが、それらは単に絵画鑑賞の手引きであったり、「本当は怖い―」式の一考察にしかない。カンバスに描かれるおびただしい襞のテーマ。そのような記述を、わたしは過去に何度か読んだことがある。
その他
ナルキッソスが自らの顔に恋焦がれて溺死し、スイセンとなったことは、顔と性器との換喩としてとらえねばならない。花は性器を顔とする生物だからである。人は性器をタブー視する。ナルキッソスは人間である間は、生殖から隔たっていたが、スイセンとなることで、生殖と顔の美しさとが一致するのである。
また、ナルキッソスに恋してかなわなかったエコー。彼女のことを調べるべきである。
ギリシア神話と古事記に見られる、冥府下りからの救出の失敗や、性器を抉り取った部分が護符(邪視避け)となる点について。神話学として、ではなくフェティッシュの問題として考えてみたい。
おわりに
成人男性は二平方メートルの皮膚をもつ。
「写生」はこの問題にどのように組み込まれるか。検討を要する。