望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

満月を半月の二倍と捉える忙しなさ ―蓮實重彥さん『表層の奈落』以前

はじめに

「好奇心」が問題なのだ。誰もがそれを肯定しあまつさえ推奨さえしながら「好奇心」の対象如何によっては眉をひそめ「品性下劣」の烙印を押されるのが当然とされる世間には良い「好奇心」と悪い「好奇心」とがあり、それは「好奇心」の向けられる対象に応じて区別されているらしい。あたかも「心」というものに無上の価値を見出し豊かな心を持つことを推奨しながらも、その働きに「善悪」の区別つける日和見主義かつ選民思想主義に通ずる偏屈さそのものなのだが「好奇心」も「心」の働きの一つにすぎないと考えれば事態はより複雑化する。「心」の働きかたにおいて「好奇心」は肯定されるべき「善」であるのに関わらず、その指向によって、再び「悪」と看做されることがありうるからだ。

壁の襞

 蓮實重彥さんはもっぱら「記号との戯れ」に淫して来た。だが彼は決して「記号」をとりわけ好んでいたわけではなく、むしろ「意味」そのものが「代替可能な記号」であるのにもかかわらず代替不可能の如く結びつきあった「モダン」の軛に閉塞した壁面からの幽かな風のそよぎを弄っているうち、鉄板のような一枚の平滑な板と見えていた壁面に柔突起のような襞を発見しその虜になったのだと思われる。息の詰まる牢獄において微風を感じること。そしてその風の流れを乱さぬようにそっと辿っていくこと。飽くことなく丹念に、手の届く範囲の壁のすべてに触れようという意思すら忘れ、惚けたようにその風と風が流れる襞の手触りに没頭すること。

 こうした態度には「心」も「好奇心」も無関係な、「退屈」さを「倦怠」によって延々に甘受するよりほかにしようはないのだという姿勢であったといえるだろう。退屈さを退屈さのまま生きる姿勢を世の中は肯定しない。「退屈」を「無為」ととらえ強迫観念にでも駆られているかのように「空虚」を埋め尽くせと急かし、徹底的に「空虚」を駆除せしむる行為こそが「有用」であり「善」であるととらえる忙しなさ。記号という「退屈な表象」に塗り固められた世界にあって、その剥き出しのまま放り出されている空虚にせっせと「意味」を張り巡らせて穴を埋め隙間を糊塗して、あたかも鉄壁であるかのように建築すること。そのように強いられるわれわれは、その対象物を破壊し自らを疲弊させ続けている。

表象の奈落

『表層の奈落 ―フィクションと思考の動態視力』と名づけられた書物がある。それは、ロラン・バルトさんの講演の様子写した一枚の写真から始まる。

 私はこの、1977年から2006年までのさまざまな場面で発表された「批評」の、はじめの一篇を読み始めたばかりにすぎない。私がこの本を読もうと思ったのは「蓮實さんの比較的新しく出版された書物(2018年6月11日第1刷)であったためで、中身についてはまったく知らなかったのである。なので冒頭の『倦怠する彼自身のいたわり ロラン・バルト追悼』の冒頭から、句読点が多様されたあまりにもブツ切れの文体に大いなる不審を抱いたのだが、読み進むにつれてかつての呪文的と形容された、アドリブによる(と感じられる)ワンカット長回しの文体が戻ってくるところに快感を覚え、多用される句読点には多用する意図があるに決まっているのであり、そのような文体によってのみ批評は対象との距離をひとまず置くことができたのだろうと感じたのである。

 それにしても、ここでの蓮實さんは対象(「ロラン・バルトさんの講演の写真」)に迫るにあたって腰が引けていたように感じたが、それはその写真の中でロラン・バルトさんが見ている先にいるのが、その通訳をしていた蓮實さん自身であることと関係があったのではなかったろうか。だが、ここでその文体に関する考察をおこなう準備も能力も私にはなく、そのように「感じた」という「心」の動きを分析していく行為が「善」であるとも思われないことから、その問題から離れようと思う。

好奇心と慈悲

 好奇心とは、特権的な感覚器官を粗雑なまでに特権化し、主体を拡散と断片化の力学にさからわせようとする、知性の、独断的で退屈な拒絶の儀式にほかならない。(中略)自分に対しても、他者に対しても、いたわりを欠いた振舞いであるが故に、それは独断的なのだ。(同書 倦怠する彼自身のいたわり p.15)

この部分が、私にとって最も重要だった。「好奇心」とは独断的な態度であり、粗雑な自我を粗雑なまま「自分だから」という理由で最優先させ、自身を損なわない安全な位置において対象を徹底的に分解し、自らの糧として清濁併せて消費してしまおうという態度に他ならない。それは、独善的であると同時に自らをも痛めつける。「好奇心」とは他者を自己によって存在させしめようとする行為だ。それは時に身の丈よりも巨大な卵を飲み込もうとして裂けてしまう蛇のような事態を招くこともあるが、たいていは自らの胃の腑に収まるよう、卵は粉々に砕かれるだろう。そうして自らは自らの姿を変えないまま、かつての「好奇心」の対象を「自己」に取り込み、多少の胃もたれの感覚を残した亡き者にしてしまうのである。

 このように捉えれば「好奇心」に良いものも悪いものもなく、対象によって「好奇心」の良し悪しを判断する態度も誤りであることがわかる。「好奇心」とは、すべからく「悪」なのだ。「好奇心」は他者から毟り取る、儀礼を欠いた態度なのであり、毟り取るという行為をすることによって、ぽっかりと空いた穴から目を逸らすその場しのぎに他ならなかったのだから。

満月は半月の倍か

 「好奇心」によって満月を観測するものは、つねに自らの脳内に月の半分を映し出し、天空の満月の半分を自らが写し取った半分に合わせているといえる。したがって、どんなに熱心に観測したところで、観測者は満月の半分しかとらえることはできない。見ることとは(五感全てにあてはまるのだが)自分と対象物とを分断し、対象物を投影するため存在の半分に幕を下ろしてそこに光をあてることで、対象物の半分を克明に映し出す行為なのである。幕を下ろさなければ自らのうちにそれを取り込み観測することができないのは、自分も対象物も互いに「存在」してしまっているためである。「存在」とは「移動」を強制されるあり方なのだから、「退屈」とは「存在」の存在意義に反を唱える感情であり、「存在」は「存在」を維持するために、合一よりも離反を、遍満よりも偏在を志向する。そこでは世界は半分ですむ。あとの半分は幕として用いたり、移動のために残しておかねばならないからである。

好奇心の無い世界

 慈悲とは、離反よりも合一を、偏在よりも遍満を求める姿勢だ。自他に区別を設けないのであるから、観測者と対象物という区別もまた存在しない。太陽があればそれを拝み、月があればそれを愛でる。科学という、対象を傷つけ自らを疲弊させる行為をやめ、その日その日を助け合いながら呆けたような毎日を過ごしつづけること。「好奇心」が倦怠にとって替わった世界とは、疑心暗鬼のない世界である。謎のない世界である。競争のない世界である。科学的進歩のない世界である。広く大きな一つの世界である。

おわりに

 「存在」に対して、「好奇心」と「倦怠」とを対義語として並べてみたときに何が起こるのか? 先に引用した部分が私の「好奇心」を刺激したことから、このブログは書かれている。「倦怠」に耐え続けることを「是」としながら「好奇心」に駆られて、せっせとキーをたたいているこの態度をイロニーとしてしまえば、「存在」はより強固になり「慈悲」から遠ざかってしまうだろう。まずは、この奈落に横臥し、周りを弄りつづけてみたいと思うのだ。