全ては「現れ」ている
「今」なんて不確かなこと
この地球が全てではありませんか。自然破壊、資源枯渇、地域格差、戦争。「今の地球」を肯定することも、批判することも、諦めることも、まったく無意味です。だって、「今の」なんて不確かなモノについて何を語ったところで、無い的にむかって無い矢を射ているようなものなのですから。それに、そのような言葉はすべて再帰的ではありませんか。このような状況を生み出しているのはほかならぬ我々なのですから。
中動態の世界
『中動態の世界』読み進めていますよ。冒頭の「依存症」などに関する挿話は今一つでしたが、「(自由)意思」「暴力と権力」「中動態に対する能動態においては「意思」を語る概念がなかった」「れる・られる が「自発、可能、尊敬、受動 を兼ねているわけ」あたりまでです。現在の能動態と、中動態に相関する能動態との違いの部分では、脳がプルプルふるえてしまいました。この後はきっと、ビッグネームの哲学の再検証が行われるのに違いありません。今度、往復4時間ほど電車に乗る予定がありますから、そこで読み終えることができそうです。さて…
形而上学の弱虫
精神なんてない
私は、哲学を「存在を問う学問」だと考えていて、そこから導き出される「倫理」に関しては全く興味がもてません。だいたい「真理」とは「事理的」でなければならないと思います。なぜならば、我々は「相関する形」であり「現象」なので。「意思」とか「我」とかいう「内面」にかかわる言説の全ては「空疎な精神論」です。だって、「精神」なんて、もともとはないのですから。
前略プリニウスさん
「博物学」の時代には、形而上学など無味乾燥なものでしたでしょう。だって、世界中からみたこともない風物が次々続々紹介されていたのです。これら豊かな自然をそのままに享受しておれば、地球は今とは随分と違った環境におかれていたのかもしれませんね。でも、それは言わない約束でした。だって、「可能性」というのは、形而上的おねだりに他ならないのですから。
石橋を叩いて
量子もつれによってあらゆる可能性を網羅してみたところで、蓋をあけてみればただ一つの状態に収れんしてしまうのです。失敗しないためのシミュレーションの精度? なんて弱虫なのでしょう。人知れずトライアンドエラーを繰り返したって、無駄ですよ。だって、未来はそれだけが独立して現れるわけではないのですから。
「地球(宇宙)」があります。それが全てではありませんか。形而上なんて、無意味です。全ては形而下に現れてこそ、現れるのです。
現実にコミットする
現象している世界から、ピーターパンのように飛翔して、「今」という状況から完全に自由になったつもりで、いろんな思念をこねくりまわして、「純粋○○」だとか「本質的○○」だとか「超越」だとか、「超克」だとか、鼻息を荒くしている人たちを見ていると、呑気だなと思ってしまう。彼らは、現実にコミットしなくてもすむところで、いい気になっているだけなんだ。
主体の問題
せめてアインシュタインに
ニュートンからアインシュタインになって久しいではありませんか。認識はすでに、絶対から相対にシフトしているではありませんか。そしてさらに、すべては不確定だというところにまで行き着いているではありませんか。なぜ、「自我」をニュートンの時代から解き放とうとしないのでしょうか。「絶対」なんていうのは「涅槃」にしかないんです。そんなの二万年前から自明のことではありませんか。状況は全て相関関係にあります。というところをまず共有しようではありませんか。
自由の鎖
「主体性の確立」とか「責任を担う」とかいうフワフワした精神論は捨ててしまえばいいんです。そういうのは全て「制度」でしかないんです。人間が、存在の根源的不安に耐えきれずに創り出してしまった「自由意志」を、権力構造が都合よく利用しているだけではありませんか。社会を円滑に進めるために、絵にかいた「自由意志」を科しているいるんです。つまり、「主体性」こそが「拘束」の鎖。でもこれはまた別のお話で。
即物ではなく則物
「道」と「型」
『日本人は思想したか』はよく引き合いにだしますが、「○○道」という具体的な技能に則って、精神性を「型」に落とし込む手際のすばらしさを引きたいためです。
思想は「型」において具現する。これ以外にどう実現するというのでしょう。「哲学」? なにそれおいしいの? ってことです。ここで忘れてはならいこと。全ての「型」は「手本」「規範」「真理」ではなく身につけた後に「超えていくべきもの」だということです。「身につける」とは自らの血肉とするということです。自分が型であり型が自分となるまで反復することです。「型」が「思想」そのものだというと、誤解されてしまいそう。環境に相関する躰をもつ私が型を習得するとき、型を環境とする躰と躰を環境とする型は相互に変化します。
唯物論の弁護
唯物論とは、「物」至上主義ではありません。「物」の不変性を主張するものでもありません。「唯物だなんてギスギスしていやぁね」とか「なんでも物で解決しようだなんて、心がないね」とかいう意見をもつ人々は、唯物と即物を混同しています。
科学の作法
唯物とは形而上学をもてあそんで現実から乖離することを戒める態度に他ならない。常に「事実に即して検証すること」が唯物論であり、その意味では「科学の作法」こそが唯物の基本姿勢だといえます。「○○道」は「○○学」であり「型」は「公理、定理」に相当するでしょう。
横断的抽出は否定する
○○道を集めて、それらに共通する公式を抽出することができれば、それは「日本思想」のエッセンスだといえるのではないか。そんな誘惑に駆られる方もいらっしゃるでしょうか。私はそういう作業には全く興味がもてません。なるほど、唯物論が可能にした比較民俗学、構造論に私は背を向けることになるのかぁ。ですけど、構造論はその登場と同時に、構造にはまらない要素を切り捨てているという批判があったのでした。
共通点よりも差異を分割よりも統合を
自由意志を否定するからといって、個体差を否定しているわけではありません。環境は様々に現れ、その差異は薫習していきますから、どうしたって個性は生じるわけです。勘違いしてはならないのは、主体があって個性が生じるのではなく、ただ、個体差があるのだという点です。個体差が生じる以前の純粋存在なぞ、ありえませんよ。基体と色とは別れない。色があって基体があるわけでもない。色付きの基体があるだけです。
コトということ
思い、体、形、は相関し、休まずに姿を変えていきます。私はそれを「状況」と呼んできましたが、つまりは「コト」として存在する。ということです。前回にも書いたことですが、「事」は、華厳経、南方マンダラからいただいたものです。
事は移動によってある
あらゆる状況は現象において現れている。現れているものは全て形をもつ。形は環境に相関しており片時も同じ形にとどまることはない。全ては形に即して現象する。だから、則物説。唯物論という言葉では「物」が硬直している感じですから、今後私は「則物説」でいこうかと思うわけです。というわけで今回はここまで。
さいごに
本当は、則物説であるからには、こんな形而上的言説ではない技能論にまとめなければ説得力0なんだな。今後の課題。