望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

精霊の王 第六章までの雑感 (天台本覚とアニミズム)

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『精霊の王』中沢新一 講談社 2003.11.20初版 2003.12.19ニ刷

「生命」の問題

禅と密教 

 仏教は物質を否定する。

 解脱とは物質を生み出す運動からの離脱だ。仏教にとって物質とは存在そのものであり、そのように存在を結んでしまった物質を解きほぐし、大いなる「一」へ還すための「正しい認識」を得るための道場としてのみ、現世は意味をもつ。現世とは物質であり物質とは執着であり執着とは苦だ。つまり、仏教は徹底的に唯物的に物質を拒否する哲学なのだ。

 その正統的な極限が「禅」であるとすれば、逆方向の極限が「密教」である。

 密教は徹底的に物質を肯定する。存在を遊び尽くす。
 禅が「迷妄」として切り捨てようとした「煩悩の演出」をとことんまで戯れ味わい尽くした挙句の果てに隠されている場面に立ち会おうとする。密教の唯物的全肯定の立場は徹頭徹尾物質に塗れた解脱への順路を進んでいく。

 禅はモノトーンで、密教は極彩色だ。それらが目指す場所は等しく「涅槃寂静」だ。

 つまり、禅も密教も、「生命」と真正面から向き合っているとはいえない。

出物腫れ物としての「生命」

 仏教において「生命」は余剰なのである。そして、そのような余剰が生じた理由は「それが、ダルマだから」としか示さない。

仏教が答えないのは、元来始まりも終わりもないからである。

 涅槃が揺らいでポンと宇宙が生じ「苦」が満ちる。涅槃も「絶対安定」ではないのだ。「涅槃」には始まりも終りもない。「苦」には始まりと終わりがあるが、それは繰り返される。「生命」は永遠に「厄介者」である。

 この世は、そのような「生命」が生じてしまう仕組みになっているのである。

癌としての「生命」

 「生命」とは、「一」からの「分割」であり「疎外」である。「解脱」とは、その余剰を「一」へ合一することである。仏教にとって「生命」とはあくまでも一時的に生じた誤りであり、「癌」のようなものである。
 西洋医学であれば、それらは選別されて悪いものは切り離して棄てられ、よい部分だけを残そうとするが、仏教においては、存在の全てが癌なのであるから、善悪などを区別しうる基準は存在しない。

 大乗仏教が求められた理由、他力本願を強弁してまで衆生を救わねばならない理由とは、生命を生み出してしまう「苦」を全摘できなければ、「輪廻」を停止できないからである。
 一人が解脱しても意味が無い。千人が解脱しても意味が無い。全人類が解脱できなければ、輪廻は終らないのである。涅槃とはどこか他の地ではない。全宇宙の存在が消滅したところこそが涅槃なのである。

 だが、そこにまた風が吹いて「苦」が生じる。なぜならば、「涅槃」そのものに、「生命」を生み出してしまう機構が内臓されているためである。

仏教は反自然だ

 だから「生命」が問題なのだ。
 さきほどから「生命」という言葉を用いているが、これはたんに動植物の命だけを意味するわけではない。この場合は「生命」=「アニマ」という意味をもたせたいのである。
 仏教にとって「生命」とは「物質」である。それは「アーラヤ識」を底膜として生じた構造体であり、「迷妄」であり「妄執」であり「煩悩」である。仏教はそのような認識の下、アーラヤ識の底を抜いて、この構造体を消滅させようとする。だが、そのためには認識する力が必要だ。それには意識が不可欠だ。そこで、意識を持つ「有情」だけが、「解脱」に至るということになる。

 放っておいても「自然」に顕れてしまうものが「生命」である。その「自然」に対抗しようとするのであるから、仏教は「反自然」哲学である。すなわち、自然に顕れるアーラヤ識が「自然」であり、それを払底させようとする「意識」は「反自然」なのだ。人間とは「自然」と「反自然」との相克を生きる宿命をおう。それが仏教である。これでは、生きることが苦であるのは当然だ。

アニミズム

素朴さ

 一方、存在に畏怖し、自然のままにとらえると、「精霊」や、「八百万の神」を感じることができる。
 自然を畏怖すること。他人を畏怖すること。とうてい制御できない巨大な、膨大な、荒ぶる力を前に、為す統べなく頭を抱え、そして身の回りのあらゆる物事の動きから、生き抜くための経験則を導き出すこと。

唯物的汎神論

 アニミズムは、全てが精霊の力だと考えるスピリチュアルなものとは真逆だ。無力な人間が、大いなる自然の中で生きる術を見出そうとする必死の科学こそが、「八百万の神」の源である。

 そこからは数多くの、言い伝え、迷信、しきたりが生じた。彼らは、自分の身の丈、自分の家族の範囲、自分の村の区域から、全宇宙の運動を捉え、徹底的に唯物的なプロセスとして記憶し、伝えたのである。一切の抽象化も、観念化も、形式化もせず、ただひたすら、一対一の対応を愚直に守ったのである。そしてそのような行動が、恵をもたらしてくれたならば、感謝を捧げ、うまくいかないことがあれば、これまでとの違いを徹底的に検証し、たとえそれが実際のプロセスには影響を与えていなかったとしても、次回からのシキタリに組み込み、自分達の至らなさを、詫びて、鎮めの儀式を執り行ったのである。

直接生きる

 生きることが苦痛であるかどうかに思いを馳せる暇はない。ただ、「今日を生きぬくこと」が最大の関心事だった。自然が豊かであることが、自らを豊かにすることであり、自然が痩せることは、自らが痩せることである。この単純な直接的な暮らしこそ「生命」を真正面からとらえた生活なのである。

本覚論

山川草木悉皆成仏

 先に仏教は、禅も密教も「生命」を方便とする。と書いた。それは世の中を「煩悩と悟り」の二分法で捉え、生命は煩悩の源であるという観点から、一方は徹底的に生命を否定し、もう一方は徹底的に生命を肯定するという「道具」として用いたからである。

 だがここに、最澄が開いた天台宗がある。その「本覚思想」では、「煩悩と悟り」の二分法ではなく、両者合一の一元論を主張しているのであるが、これは先のアニミズムに通低する部分がある。

『煩悩と悟り。その区別はいかなる概念作用も起こっていない純粋清浄な(有でも無でもない)「一心(唯一の心)」の上に他ならない。有無は知覚がもたらす情報から思考がその区別を作り出すが、「一心」にはそのような区別は立てられない。知覚を動かすのは「一心」であり「一心」は有無を超えている。この「一心」が霊妙に働くとき生死と呼ばれる現象が起きる。物質の元素をひとつに集合していく現実化の妙用がこの「一心」に働けば、身体、神経組織、脳の組織が作られて具体的な人間が生まれてくる。これを解体する力が働けば死という現実が訪れる。生も死も「一心」の自己転変による現実の二つの様態であり、日常的に常にその妙用は顕れている」『天台法華宗牛頭法門要纂』(伝最澄作)※意訳

 つまり、煩悩の世界に「一心」の霊妙な働きを認識する生き方こそが出家である。

十界はみな全てそのままで存在の真理の表現であるから、あるがままの世界を変える(解脱する)必要は無いのである。(草木成仏=草木不成仏)

 

「本覚論」になく「宿神」にあるもの

 天台宗は、仏教の智を極限までつきつめた結果、仏教の二元論を解体してしまった。だが、知によって到達したものであったことから、「唯物」的部分が弱くなったのである。具体的には「生死即涅槃、煩悩即解脱、無明即明(相即論)」の「即」に関わる点である。

 煩悩世界は「肉」の世界である。生命力の世界である。観念的に「即」で済ませてしまった飛躍は、「肉」という物質的あり方には不可能なのである。この点で、芸能の神である「宿神」は「生命」を内蔵していた。

 また、仏教の智をぶち抜いた最澄天台宗は、仏教の批判として、それまでの仏教が在来仏教のクリティーイクであったと同じ在り方で登場したのであったが、「一心」の「霊妙な動き」の原動力が、仏教からは説明できなかった。 そこで、裏戸の神として「摩多羅神」を召還したのであったが、この摩多羅神こそが、芸能の民が神とする「宿神」なのであった。(続く)