望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

精霊の王 第七章以降メモとまとめ(『六輪一露之記』を中心に)

はじめに

『国家の原理が作動していない社会に生きるとき、人間にはどんな思考、身体感覚、どのような姿をした超越または内在の感覚がふさわしいのか?』

 中沢さんは、「シャグジ=宿神」に、国家の原理によって汚染されていない思考の痕跡を見出そうとしていた。

第七章 『明宿集』の深遠

 折口信夫さんの「まれびと」と金春禅竹さんの「宿神」の共通性を論証する。

「まれびと」が「ニライ」と呼ばれる場の底(スク;ニライスク)からナビンドゥの洞窟を通じて、植物を伝い、祭りの場(現実)へ現われる。「ニライ」とはアボリジニの「ドリータイム」と同じ場だ。そこは、無限の豊かさを孕みながら、少しも変化せず動かない。祭りの時、普段は閉ざしている経路を開き、「まれびと」という形を成して、超空間からの贈与が行われるのである。

 『明宿集』によれば、「翁」とは「存在」である。

翁は、法身大日如来)として、報身(阿弥陀如来)として、応身(釈迦牟尼)として、物質の上または内に、さまざまな神の姿に垂迹する。

 「翁」は、「ニライ」であり「ドリームタイム」にほかならない。それは、「自然の力」と直接的に関係しており自然活動を通して世界に顕現する「存在の強度」を表現する概念である。

 以後、『明宿集』は、翁の垂迹し物質に顕現した事象を列挙立証していく。

 住吉三神:海の渦潮の力。強力な浄化力=清め=荒々しさ⇒肯定的力へ転換する

「若布刈」神事「ワカメ」「アラメ」の若々しい生命力を自らの象徴として出現する。

また、海⇒塩;海水を煮詰めて得られる=清め 塩土ノ翁/海彦・山彦神話

 ※ 南北アメリカ~アラスカの『鳥の巣あさり神話(レヴィ=ストロース)』や、ポリネシア諸島などに、類話がみられる。

和歌と性愛:三翁(身足翁)=(住吉・人丸と在原業平

 住吉神社在原業平=性愛と和歌の守護神 (『毘沙門堂本古集註』)

和歌に蔵された「喩」の転換力=浄化と転換の神の威力⇒塩と媒介

性愛=男女という異質性をそのままで結び合わせる技。(男性が女性を抑圧することのない性愛)

差異を保ったまま一つに接合する技

純粋知性原理(「智慧」「イデア」)と生命原理(後ろ戸の神)の接合

こうした二重性を「春日大社ー奈良坂の春日宮」「三輪の大神ー泊瀬の洞窟」などに見出す。また、「熱海温泉」に「地の龍の流動」を見る。

パワースポット=「翁」の示現。〈いたるところに「翁」が示現する〉

『ありとあらゆるところ、すなわち百億の宇宙システム、百億の天体、山河、大地、森羅万象、草木岩石などにいたるまで、すべてがこの「翁」という存在の分身であり、妙用でないものなどはひとつもないことに気付くのである』(明宿集

このような示現=スピノザ唯一神を突き詰めたときに到達した汎神論、アニミズムへと通低する。

第八章 埋葬された宿神

 シャグジは、東日本では、さまざまな神社の片隅に追いやられており、西日本では、名を変え隠されているが、被差別民の守護神として奉られている。そして諏訪ではミシャグチ信仰圏を形勢する。こうした差異は、「国家」の成り立ちに関係があるということを、論証し、「天皇制」と「近世的権力」の構造の違いを検証した。

第九章 宿神のトポロジー

「翁」は「カオスモス」である。シャグジ空間は、目に見えない潜在的(ヴァーチャル)な空間の成り立ちをしており、現実を作り出す力と形態の萌芽がぎっしりと詰まって渦を巻いて、絶え間なく運動している。ソコの薄い膜を通じて「翁」は「現実世界」に転換する/示現する。

金春禅竹の『六輪一露之記』は猿能楽者禅竹の哲学的試行の成果である。

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天地未分明。神道「みなもと(根源)」。仏教「未出生のア字」。易学「乾」。「序」。天体の停止しない運動。流動運動し続ける万物を産む器。幽玄の根源。方向がないので、万事が対称性を保っている。「円満長久の寿命」=連続的生命⇒個体性を超えた普遍的生命の流れ「ゾーエ」(古代ギリシア

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天地分化。重下軽上ー気が立ち起こる。神道「国常立神の生起(実際にみなもとの始まり)。仏教「性海無風金波自涌」無を転じて有となる転換の一波が立ち起こる。「破」

コヒーレンス(位相の揃い)⇒現実化への力線の束が出来上がっていく。「ゾーエ」内部に個体的生命を作り出そうとする気。この状態が「カオスモス」だが、まだ現実には到達しない。

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形態形成が落ち着き定まる。森羅万象が自分の住み処を得て「落居」ということを行う。減少する心をかたちづくる全ての契機が他の契機を巻き込みながら変化流動を開始(仏教「縁起か」)。〈生ー死|涅槃〉の差別世界が産まれ出る。易学「万事万善が集まるところ」

円内の「杭」は向こう側に広がる潜在空間から、こちら側の現実世界の方にちょこんと突き出ている。宇宙卵内部の力線は分化と接合とを繰り返しながら、その杭の示す転換点に殺到してくる。「急」「伊勢神宮の心の御柱

ここまでの三つの輪が「正常な輪」と言われる。ここまでは、人間の思考や感情の影響が加わっていない、いかなる欲望も混入してない。

『身体・言語・意識の三つの活動を起こしていながら、いかなる区別相もあらわれず(無相)いかなる欲望も混入していない状態(幽玄)。

 住輪の杭のある場所から、さまざまな形態が出現する。顕れることも隠れることも自在。心の如し』

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具体物でできた現実世界。

猿楽の芸はこの像輪世界を物真似るのだが、心は上三輪にとどめたままでなくてはならない。山、川、樹木を作り出していった創造的なエネルギーに満ちた潜在空間を、具像性世界の背後に感知させるものでなければならない。

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像輪からさらに芸が上達すれば、これまで通りの芸も、これまでにない、芸の標準を壊した芸であっても、素晴らしい芸であると皆が思う。自分の自由な心に従って「輪を破る」のだが、本質においては輪から逸脱していない。輪と輪を破ることと一体。万能の壊し方を表す。

上三輪に一体となった自由自在の息吹が、現実世界の中に流れ込む。

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最初の「寿輪」に立ち戻る。寿輪の位相を超えて空性はいよいよ深まりいよいよ寂静である。

 芸の極み。但し、この時、芸の表現が強くなることを警戒すべきである。芸が強くなると愛も余情もなくなる。だが、それは真の強さを理解していないためでもある。

真実の強さ=柳の枝の風になびくように、周囲の変化に対応した、外界の物に負けない心遣いのこと。

空輪はいかなる環境にも順応して変化していくが、その痕跡すら自他に残さない。「大円鏡智」五十歳以上の者が演ずべき真実の演技。何ものにも執着しない演技は無極の境地を実現する。

「芸の表現が強くなる」

西洋の弁証法的主体は、現象する世界にさまよい出て疎外を覚え、もとの空へ回帰しようという運動を開始するが、猿楽では、現実に対して「柳に風」でさらに根源的な否定性を目指す。

一露

流動するエネルギーを一つの滴に溶かし込んだもの。宇宙全体を一滴に凝縮した状態。密教では一滴がたちまち利剣に変容する様子をイメージする瞑想を行う。

一露妙利はまったく堅固で、不動の性剣である。それは、不動明王の利剣であり、文殊菩薩の智剣である。

『善であれ悪であれ、すべての思慮をおこなうがよい』(『楞伽経』)

『思考の路は途絶し、言語は絶滅し」(『唯識説の文』)

六輪一滴をクラインの壷ならびにメビウスの輪で説明。

常民のトポロジーは、祭りの終わりにクラインの壷を切断し、内と外とを分離させる。そして祭りが近づくと、切れ目を縫い合わせ、メビウスの輪が戻されて、「内ー外」が一体となる。ハレとケ。カーニバル。祝祭空間。儀式。仲立ち。

Ⅹ 多神教的テクノロジー

「ある」の世界は「空」に根拠をもつ。

「空」を「ある」に転ずる絶対転換の場は「後ろ戸」である。

「後ろ戸」の場はいたるとこに偏在する。我々の心の中にもある。転換は絶えず出現と消滅とを繰り返す。世界は幽玄のつくりをしている。

幽玄のつくりをした世界の仕組みを表現するのが芸能である。芸人は「非僧非俗」のまま存在の後ろ戸に立ちつづけなければならない。

そして、立花僧(いけばな)、山水河原者、立石僧、庭園職人、などが、瞬間的に空間を転換させる技を「「芸」として論じ、古式の捕鯨を日本のマニュファクチャの基礎として検証する。

一神教テクノロジー:異質なものを単一の原理に無理やり従わせ均質に均す。

多神教テクノロジー:異質なものの異質性を保ったまま、お互いの間に適切なインターフェイス=接続様式を見出す。(神話的思考。儀式。リスペクト)

 さらに、宿神=コーラ(chola):プラトン へと敷衍する。

イデアが父子間の転写によって分有されるのに対し、コーラは母性として自分の内部に形態波動を生成する能力をもち、その中からさまざまな物質の純粋形態が生まれる。

プラトン哲学(イデア)の後ろ戸としてのコーラ。現代的マテマリズム(唯物論

そして、西田幾多郎、田邊元の哲学⇒『フィロソフィア・ヤポニカ』へ。

後ろ戸の哲学=前哲学的空間の実践=非哲学←マルクス「世界を変える哲学」

ⅩⅠ 環太平洋仮説

かひこ=常世

以下略

さいごに

中沢さんの「民俗学コスモロジー」要素の一露ともいえる著作。ここからさらなる学問探求が展開していく。

人間は、生きている。だから、生きているこの状態からはじめることになる。生きている状態をカッコにいれると形而上学になる。そして形而上学はおそらく、生命を肯定できない。

対称性が保たれていた場の、対称性が破れる瞬間に、何が起こっているのかについて、古来より人々は思案してきたように思う。わたしもそのことを思案している。そのとき拠り所とすべきは、生まれる以前と死んだ後のことしかなかった。だが、生死とはゾーエの顕れ方の違いなのであり、そのような現れ方の違いを時空によって具象する器世界が、後ろ戸からポンと顕れたのだと考えている。だがこのとき、後ろ戸の薄い膜に隔てられてあるカオスモスの場も不変ではいられない。いや、そこは常に変化し、片時も静止することはないがゆえに、常に不変であり寂静なのであった。

空から有が生じる。のではない。空が有に転じるのである。オセロが裏返るように、全ての位相が一瞬で転換する。だが、対称性は保たれる。白と黒の裏表の和は常に同数だからだ。(白1黒9なら、裏からみれば白9黒1なのである)

問題は、裏を見ることができないということである。その見ることの出来ない裏を、形而上学(知)によって「想定」しようというのが西洋哲学であると、乱暴に断ずるとすれば、あくまでも形而下学(身)に裏を召還しようというのが東洋哲学である。そのために「後ろ戸」が召還されるのだ。

シャクジは現世利益などよりもっと根源的な認識をもたらしてくれる。「生きる=生命」にとってなによりも必要なものは「直接感じる」ことなのだ。