はじめに
これ、刊行時、予約で購入しておりまして、おくづけによれば、第一巻は、2002年1月30日初版発行となっております。
買ったなり、拾い読みすれども、じっくりと熟読しないまま12年半の年月が流れ、あらためてこの夏、精読してみようではないかと思い立った次第。付録のCDも聞いてないから、聞こうじゃないか。「落語」、もしかしたら最近考えていることにはまってくるかもしれないし……
まだ前書きだけ
で、昨日読みはじめた。
立川談志さんの言葉で忘れられないのが「落語は人間の業の肯定」ってやつ。どこまでも人間世界を離れず、どこまでも人間の欲望に忠実に、とことん人間に付き合ってね。そこをヒューモアでひっくり返すのが、落語だと、私は踏んでいるんです。
実は、古典落語というのは「仏教経典」と表裏一体なのではないかしらんと、まあ今回の落としどころをそんな風に見込んでいるのは、まだ内緒の話。
全14巻のうち、「書いた落語傑作選」と称する九つの巻には、古典落語108席を書きおろした。その九巻目には談志落語の変遷を記してあるというのがまた、うれしい。
「私が書いた落語は面白い」と談志さんは断言しているが、これがまったくの、言文一致。言を文にあわせたのじゃない。文を言にあわせてね。拗音長音撥音、カタカナの混ぜ方なんかでネ。目がレコード針ンなって、名調子が再生されるってぇ寸法だ。
予断だが、爆笑問題の書いた漫才も、そうとう面白い。プレイボーイかなんかで連載してたりしたやつ。書いた文で、漫才の「間」が再現できてるのには、度肝を抜かれたもんだが、さすが談志の息子、といわれるだけのことはあるね。
気になった文章
前書きは実質二ページくらいのものだが、その後半になんとも気にかかる文があるから、長くなるけど引用する。
落語には、その頃の人生の全てがあった。男と女、親と伜、母と子、遊び人、遊里、博打場、旅、大名、喧嘩、四季の行事、金、夢、名誉、実際にあったこと、武士、町人、田舎の人、恋。つまりその頃の全てが舞台となり、対象となった。そしてその背景を一口に言えば、そこに生きた人間である。
その人間の苦しさ、嫌らしさ、執念、無念……等々、これらを交差させ、人間を描いた。それを己に重(ダブ)らせた。
それらが「一つの作品として完成(?)」したと思った時、落語は庶民から離れていった。
あとは演者のパーソナリティのみである。
この全集、立川談志という落語家を通しての発表であり、加えて、人間の奥底にあるデイモンというか、幻想(イリュージョン)というか、それらをひっくるめての挑戦である。現状はその途中なのだ。
それを「読み手」という読者に判りやすく一冊々々の本にした、ということ。
気にかかった部分は「落語は庶民から離れていった」という部分だ。
作品としての昇華、普遍化
落語は徹底的に「人間」に従うはずだ。だが、それが「一つの作品として完成(?)」したと思った時、「落語は庶民から離れていった。」のだという。
完成のうしろの(?)は、談志さんが生きている限り、演じ続ける限り、「作品」は常に「更新」されていくものであって、つまりそれは「完成し続ける=完成しえないもの」としてあるのだという含みだろう。談志さんの落語が静止するのは談志さんの死によってのみだった。
だが、永遠に完成し続ける、つまり常に変化していく談志さんの落語が、庶民をないがしろにして、たとえば「形而上」へ飛んでいってしまう、などということはありえない。落語には常に庶民がいたはずだ。
江戸を生きた人間が、落語という作品へ昇華したとき、個々の庶民が普遍的庶民となった、ということなのだろうか?
たとえば、「雨」を題材としてピアノのための曲を作るとする。作曲のためには「雨」を徹底的に我が物とすべく「雨」にうたれ「雨」に交わるだろう。そうやって完成した「楽譜」はもう「雨」からは離れている。といえる。
あとは、演奏者次第だ。演奏者がこの譜面から、あの冷たい、激しい、恵み豊かな、「雨」を表現できるかどうか。「譜面」には「ピアノ」で「雨」を表現する全てが記されているのだ。だが、その譜面確かに、「雨」とは程遠い。
そういうことだろうか? うん。現在のところは、そのように捉えておこう。
追記
いや、「己に重(ダブ)らせた」が、重要なんだナ。
ここで、落語が談志さんになったんだ、きっと。だから、庶民のスケッチから談志さんの深淵を垣間見せる井戸のようになった。それを覗いているのも談志さんなんだ。『頭山』だね。こりゃ。
演者のパーソナリティーというのが、それだ、自分で自分を覗き込むための装置として、古典落語があった。柄谷さんにおける、マルクス、カント、のように……
「洒落」のめす
立川談志さんは、よく「イリュージョン」という言葉を用いていた。それがこの前書きでは「デーモン」という言葉と同列におかれていることも、目新しい発見だった。
談志さんの、「イリュージョン」というのは、人間世界のあれやこれやを、徹底的なヒューモアでひっくり返したときに発生するナンセンス。を表すのだと、私は考えていたからだ。「イリュージョン」という言葉に「恐ろしさ」を感じたことはなかった。だが、改めて「ナンセンス」または「シュール」という分類で、ケタケタ笑っていてよい状況ではないことに、気づいたのである。
のである、とはお堅い言い回しだネ。
世の中の常識をまぜっかえすのに、イロニーとヒューモアとがあって、イロニーだと、『居残り』の主人公は肺病か何かの不治の病ってことになる。フランキー堺さんがやった映画のは、まさにそんな感じでね。あれは、よくなかったと思う。柄谷さんじゃないけど、やっぱりヒューモアじゃないとね。暗くっていけない。
で、『草枕』の画工は、どうなんだろうって考えると、アレもヒューモアなんだね。でも、あの態度は『落語』じゃあないね。どっちも『洒落』のめしてるが、やっぱり画工は画工の見方をしてる。彼なんか、いい加減で、適当で、飄々としてるようだが、「いい絵」と見立てるために命をかけている感じはにじみ出ている。絵のためなら死ぬ覚悟ができていそうだ。沢庵和尚のところの僧侶は、どんなときでも顔色一つかえずに「死ぬ」ことができたらしい(山田風太郎の柳生十兵衛モノにあったよ)が、飄々としていたね。
庶民はそうはいかない。そうはいかないけれども、その「そうはいかない」ってことを「落語」で表現するのに、落語家は命をかける。単に「そうはいかない」で済ませる日常生活を、なぜ、「そうはいかないのか」ととことん突き詰めた上でなけりゃ、庶民を離れ、かつ、庶民を演じることができないからさ。
落語=シェイクスピア
なぜ、落語はお経なのか。それは、落語は「ギリシア神話」であり「聖書」であり「シェイクスピア」であるということと同ンなじでね。たかだか300年では年季がたりないというムキもあるかもしれないけれども、古典落語がフルイにかけられた300年は、古代や中世とは比べ物にならないくらい、加速度的に過酷な時代だったと思うからね。いかに、「古典芸能」として「保存」されているからって、聴衆を置いてけぼりにしていたら、廃れる一方だろうに、時折漫画や映画やドラマの題材になったりするし、それは、少々落語を軽んじている部分もなきにしもあらず、って部分もあるけどもさ。
ギリシアは悲劇だから、丁重に扱われているだけで、悲劇が上等だなんて価値観そのものをぶち壊すべきだと思っているのですよ。お笑いは手慰みだとか?
シェイクスピアの喜劇に比べても、落語は遜色ありませんよ。しかも、一人でその場で完成版をご披露できるという省エネさ。エコですねぇ。
如来蔵?
イリュージョンっていうのは人間の業を肯定しきったときに、「あ、これ以上、業に入りては業に従え」てなことしてたら、俺人間やめますか? ってトコまで追い込まれちゃうよ、ヤバイヨ。っていう先までね、突き詰めて、なお、悲観しない。ヒューモアでもって「洒落」のめしちゃう。
つったって、もともと生命そのもの、存在そのものが「業」っちゃ「業」だからね。
『死神』でもって、「新しい、寿命に、Happy birthday to you!」っていわれて、クラッカー鳴らされたら、条件反射で、「フッ」ってやっちまった、テヘヘ。っていうね、照れたような笑い、じゃなくてね、もう抱腹絶倒しちゃうわけ、死ぬ直前まで。これがイリュージョン=デーモンなんだな。
中沢新一さんも書いていたように、命というのがデーモンなんです。過剰なんです。その過剰を物質に閉じ込めると生命になるんです。そこから、庶民が生まれるんです。禅僧も生まれるし、密教僧もうまれてる。
「人はもともと悟っている。ただ、鏡が曇って正しい姿を映していないだけなのです」なんて言い草、以前の俺なら「そうだそうだ」といってたさ。
でも、今はそうは思わない。
鏡でたとえるならね、曇っていようが、ピカピカだろうが、同じことでね。『善も悪も心の働きがもたらすものだ』ってのが正解なんだ。(善と悪の基準だって心が勝手にこさえた社会が、勝手にこさえてるんだし)だから、ピカピカなら善、曇りが悪、なんて分別そのものが、語るに落ちる自己矛盾なんですよ。「一」なんですから。
そういうことを言うから、「生命というのは「濁り」による陰影」だ、なんて極論に走ってしまう。それこそ、「庶民を離れて」しまって、二度と庶民を再生できない。
ともかく、生まれたんだから生きねばならない。生き物は進化論。適者生存。自然淘汰。環境が生態を生じさせるのであるならばだよ、人間の環境は「資本主義」ですよ。「拝金主義」ですよ。そういう環境が変わらない以上、人間の生態は変わらねぇ。古代ギリシアから変わりっこないんだ。だから、「断捨離」とか言って、そこだけ否定されてもね。環境がね。うん。環境がさ。
落語を読む
以前、仏教が生命を全否定し、密教が生命を全肯定、するのはいづれも生命に直面していないんだ、と書いたことを、愛・覚えていますか?
なら、生命に直面したテキストを読んでみよう、っていうのが、この夏、落語を読もうという動機です。
その筋で、読みますから「落語論」にはなりません。書いた落語傑作選を、9巻分読み終えたときには、「生命」から始まる「シャクジ」的見解が、まるっと見えたらいいなのにね。
では。