望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『渦説』―存在様態としての心霊

はじめに

#一行怪談創作部 というtwitterでの創作怪談コンテストへについて、『一行怪談』の作者は「怪談」をこのように定義している。

ただ、応募作品の中には「怪談」となっていないものも含まれていました。「怪談」の恐怖とはなにかと言えば(これも私の独断と偏見ですが)、「我々の現実世界と異世界とが触れ合う予感」です。例えば、頭のおかしい人に暴力をふるわれる恐怖、なにかの手違いでそれ相応のひどい事態になる恐怖といった、現実原則から外れない現実的な恐怖は「怪談」ではありません。かといって、現実原則から外れた超常現象やモンスターがドン!と現れても、やはり「怪談」ではないのです。超自然的なことが起こる描写も大事ですが、それだけでは「怪談」たりえず、むしろそこに至る「予感」の方が大事なのです。前者はサスペンス・ホラー、後者はスプラッタ・ホラーであり、もちろん私もそうしたジャンルは大好きなのですが、「怪談」とは立ち位置が違っていることをご理解いただきたい。

 よく「幽霊よりも生きている人間の方が恐い」と言う人がいますが、それは論点が混乱しています。現実的な恐怖・日常生活から共感しやすい恐怖というモノサシなら、そりゃあ幽霊よりも殺人犯やストーカーに襲われる方が恐いですよ。でも「もしかしたら私たちの現実世界に見知らぬ異世界が侵食してきているのでは」という怖さは、どんなに凶悪でも生きている人間相手には抱きませんし抱けません。こと「笑い」については日常的に接しているので、様々なタイプの「笑い」があり、様々なジャンル形式で展開されていることを、皆さん身にしみて理解しているでしょう。恐さ・怖さとわざわざ漢字が異なるように、恐怖もまた数限りない感情のヒダがあります。それらはグラデーションをなしており、クッキリキッパリ分かれている訳ではないのですが、少なくとも「怪談」を書くからには、「怪談」ならではの方向性を目指す態度でないといけません。

 ここは怪談論を述べる場ではないので、この辺りで止めておきましょう。ただ一つだけ、別に怪現象が全く起きていなくても、「異世界の予感」があれば怪談たりうるということは注意しておきます

 

 

 shuchi.php.co.jp

私も、作者の意見に賛成なので、長々と引用した。

 その上で、今回「怪談」を離れて問題としたいのは、

「我々の現実世界と異世界とが触れ合う予感」です。(中略)現実原則から外れない現実的な恐怖は「怪談」ではありません。

の部分だ。

Ⅰ現実世界と異世界

このような対比は、「生」と「死」とを分離した考え方に根ざしている。怪談とは生と死の境界線における報告でもある。この境界線は、普段は明確に分かたれているとの認識が、「怪談」を成立させている。(cf.『精霊の王』に関するブログ)

 しかし、仏教では、「生」と「死」は連続する「存在」の様態であり、「異界」とはせいぜい、「隣国」と捉えるべきものであり、その住人と目されるところの「霊」は「他者」であるにすぎない。

 「怪談」とは「未知との遭遇譚」として語られるべきものであり、その「恐怖」とは、それぞれの存在様態の違いから生ずる「ディスコミュニケーション」によるのである。

Ⅱ現実原則

後段の「現実原則」とはそのことだ。

我々のような存在様態を「唯一」の常識として、それ以外の法則を「超常現象」とみなすこと。「科学知識」や「弁証法」では説明不能な現象に遭遇すると、我々はもろくも「思考停止」をおこす。それなら、まだ「科学」が「博物学」の内部で眠っていた頃や、「形而上的思考」などとは無縁の「まじない、迷信、儀式」によって平衡を保っていた社会のほうが、よほどきちんと「霊」に対応していたといえる。「八百万の神」「アニミズム」の世の中における「怪談」とは「供養」の問題に尽きる。

Ⅲ 唯一の存在様態としての「渦」

1.存在とは「渦」である

「渦」というのは、「渦」そのものとしては存在しない。「渦」は何かが「渦」を巻くことによってそこに「渦」として顕れる。「渦」と「渦に巻き込まれた何か」は、分けることはできない。

 だが、仏教ではこの二つを分けて考え、「純粋な渦」は「空」の「力動するダルマ(=法)」として、ある。

「渦を巻く」のは「涅槃=空=一」の性質である。ここに、何らかの「意」を介在させると「創造主」を作らざるを得なくなるので、気をつけなければならない。あくまでも、これは「性状」なのである。(なぜ、そのような性状を有するのか?との問いに答える用意は私にはまだない。)

 この「純粋な力動としての渦」は「空」を泡立たせる。それは「量子ゆらぎ」といわれる「存在の種を巻き込んだ無数の渦」でもある。(これが空間である)

 「渦を巻く力」が周囲を「存在の種」に変化させ、そうなった後にそれらを「巻き込む」のではない。「空」も「渦を巻く力」も「存在の種」も同じだということだ。巻き込む力がなければ、巻き込まれるものものないし、巻き込まれるものがなければ、巻き込む力は顕れない。(時間は空間の展開として顕れる)

 この「渦」こそが「存在」そのものなのである。「渦」は干渉しあいながら、「渦中」に偏在をもたらし、それが存在物それぞれの「性状」となる。「それぞれの渦」が「単独性」をもつ。「魂」「命」「心」などの「性質」は、ここから生じる。したがって、自然界に存在するあらゆるものには、その形状に応じた「魂」が生じる。浮遊している「魂」が器である「体(物質)」に飛び込む。とのモデルは誤りである。「形状即魂。魂即形状」である。

2.「渦」は干渉しあう

 この性質は重要である。「渦」は不均衡な開放系である。渦と渦の周辺の境界は曖昧である。存在世界は全体として一つの渦であり、かつその内部に現れた無数の渦の複雑な流動態を呈している。全体として一つの渦があるため、宇宙は対象の破れの状態となっており、右回りの渦に、左回りが干渉すれば、互いに減衰し、逆なら増進する。遠方に生ずる渦も、渦の間をただようモノ(これも渦だ)の動向に影響を与える。つまり、渦が取り込むモノ、渦を弱めるもの、さまざまな影響を与え合う。これを「縁起」という。始まりは「一」である。だがそれぞれに「渦」を巻き始めれば、さまざまな性質を持つ渦との干渉によって、その内部環境には偏在が生じる。(これらを天明の相性と考えるのが「陰陽」思想である)

これらの渦の成り立ちは、モナド的であり、流出的でもある。だが、渦はモナドのように安定した個物ではなく、流出体のような「オリジナル」を持たない。

3.「渦」は中心に「空」を持つ

「渦」の中央には「空の柱」が生ずる。だが、これは「渦」の構造体ではない。渦によって結果的に生ずるのが「空」だ。そしてこの「空」が「存在以前の空」の姿なのである。「渦」を「生命」ととらえるとき、「密教」が「生命(存在)」の過剰な肯定によって得ようとしたのは、「空の柱」を拡張し続けることであり、「禅」が「生命(存在)」の絶対否定によって得ようとしたのは「存在以前の空」なのだ。

 色即是空 空即是色 とはこのことをあらわすものである。そしてこの、「空なる純粋な渦(ダルマとしての力動)は、いかなることがあっても汚されることはない。

4.「渦」「渦」としては感知されない

「渦」として存在する我々は、普段この「渦」を感知しない。「渦」は「渦の形状がもつ感覚器」によって「光」であったり「電磁波」であったり、「風」であったり、あるいは「虫の知らせ」であったりするように、変換されているからだ。

「渦」をどのように感知するか(どのような感知器を有しているか)は、そのままそれぞれの渦(生物)の「環境」となる。「ユクスキュルの環世界」は、このように理解できる。

Ⅳ 存在様態としての心霊

「存在」をこのようにとらえてくれば、「心霊」という性状がどのようなものかは、推測できる。心霊とは

①「ひじょうに弱まった渦である」

 そのため、通常の渦よりも、干渉を受けやすい。それはつまり、他の渦へ入り込みやすいということでもある。

②「渦中の環境の粘度が高い」

 恨み、妬み、嫉みなど、あらゆる宗教で「罪」とされているのは、「渦中環境」の粘性を高める活動である。粘度が高いと、渦が消失してもなお、環境がよどんだまま漂うことになる。回転を失ってなお渦中環境がとどまった状態は、①よりもさらに影響が大きい。除霊のため榊木を振ったり、水、酒、塩を撒いたりすることを「お祓い」というのは、澱んだ成分を、分散させる、というところから来ているのかもしれない。

③「渦を持たないモノは波に近づく」

 物質とは、粒子的性質と波的性質を持っている。「渦」としての構造を保っている間は「粒子的振る舞い」が主となる。このとき、物質の運動には制限が生じており、それがいわゆる「この世」の常識なっている。だが、「波的存在」は、この制限を離れてより自由度が高くなり、電磁気的性質を強く帯びる(かもしれない)。

 心霊が、精神的であるだけでなく、肉体的だったり、電気系統だったりへ干渉が可能な理由は、このような理由による。

おわりに

私にとっての「怪談」とは、このように「超常現象」や「異界」などという偏見から解き放つためにこそ、重要なのである。

「渦説」については、引き続き考えていきたいと思う。

以上