望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

真如の分節により生じた「エロス」から考える「未来」の在り処 ―輪廻と映画の比喩の問題点

はじめに

 仏教では存在をは、

①「無常」だから「物はない」

②「縁起」だから「物はない」

 と考える。

「無常」とは、「存在する物はそのまま存在し続けることはない」ということを表している。なぜ、そのまま存在し続けることができないのか、といえば物は複数の物の集まりで、その関係性が絶えず変化し続けるから、と考えている。(② の「縁起」とはこのことを意味している)

 物の形状(性状)として存在とは、その物の。ある任意の過去における一刹那の物と物との相関関係を捉えることでしか確定しえない。物は常に変化する。その変化とは「科学」的に測定可能な変化である。

 物と物とを永遠に同じ位置関係に留め置くことのできる力は、まだ発見されていないし、そのような力が発見されたとしてもそれほどの力を外力として受けた物質は崩壊してしまうと考えられる。

 仮に崩壊させないまま、永遠に留め置くことができたとするのなら、それは、その物に対する「時間の停止」を意味する。逆に言えば、「無常」であるとは、「時間」的であることを表している。このことから、不変の実存在である「真如」には「時間」が無いことがわかり、「時間」の関わらない様態は「存在」を認めることも不可能であることにより、「時間停止」した物は存在しえないことが導かれる。よって、「無常」の反対は「有常(常にあり続けるもの)」ではなく、「空(あることもなく、ないこともない状態)」ということになる(試論)

 しかし、物と物との関係性のみがある、ということは物がある、という前提に立っていることになる。その物とは物単体では物として存在たりえない物でなければならない(非存在存在物:たとえば量子「単体」ではその振る舞いが、存在的な意味を持たないようなものでなければならない。それをここでは「単体」と呼ぶ)。それは古代ギリシアの「アトム」であり、そこから派生する「モナド」の眷属である。(試論2)

 しかし、非存在物の相関関係こそが存在となる、という場合その存在が顕現する「場」が存在しなければならない。だが、「場」とは「単体」に充満していなければ「空間」を維持できない。「場」とは何次元を持つかはともかく、「単体」を保持するにたる強度と夥しい数の「単体」を容れる容積とを兼ね備えていなければならない。華厳では、それを「単体」とし、「単体」とは内部に繰り込まれた無限の鏡像のようなものであるとする。「単体」は数学的には0次元であるが、そこに無限反復される「単体」が「幻妄の存在界」であると考える。だが、その場合、この存在界の多様性を説明することが非常に困難となる。「単体」の不完全な鏡像、コピー、シュミラークルとしての存在界? 「単体」とは単体では存在しないのではないか? と今は思っている(試論3)

 上記を統合すると、真如の分割とは豆腐をこれ以上は不可能だというほど細かく賽の目切するようなものである。「風」とは分割されたときに生じる空隙に吹く。このことから「真如」は閉じていない、という仮定を証明する手がかりになる。真如が閉じているとすると、その閉じた外側を考えなければならない。しかし真如とは均一な一であるから、内も外もない。よって、閉じていると考えることには矛盾が生じる。よって真如は開いている。真如が分割されると、移動が可能となる。つまり「空間」が生じる。またその次に「時間」が意識されるようになる。いや、魅力的な仮定としては、「時間」こそが「意識」という観点だろう。「身体」と「意識」との分離の感覚は、「空間」と「時間」との違いの感覚に等しい。(試論まとめ)

隔たり

 「仏教」の目指す「悟りの境地」が「無分別の一たる真如」に投げ込まれて一体となることにあることだ。輪廻(存在)からの離脱こそが「存在の苦」を離れるための根本解決法だからだ。

 この苦しみはリアルではない。それは縁起の考え方によって明らかだ。では、なぜこれがリアルに感じられるのか? それはわれわれがそれをリアルと捉えるようにデザインされたからだ。

 このデザインとは「一という真如の分別」であり、それによって生じた「隔たり」がその根本である。

「隔たり」とは「距離」であり「空間」であり、「分離」である。そこに「移動」の余地が生じて「変化」が常態化し、その「移動」や「変化」の度合いを測る「時間」感覚を備えた器官が発生する原因となった。

解脱

 「解脱」とは、この「隔たり」以前を体験することだ。いや、体験ではまだ、隔たりが残る。今は、「隔たり以前そのものとなること」だ。としかいえない。なにしろ、「隔たりのない真如」とは、広がりも形ももたず部分をもたず全体を指すこともできない事物なのだから。

エロス

 性衝動とは、子孫を残すことを本意とする身体の働きである。

 したがって、「避妊」を前提とした性衝動は文化的であり、社会的である。結果を回避し経過のみを楽しむこと。それは経時時快楽であり、依存性をもつ。

 依存性とは過去へ未来を繰り込もうとする現在的衝動であるが、報酬系とは元来「経験によって未来を予測する」ことでしか強化しえない。よって、あらゆる「報酬系」は「時間的」である。禁断症状とは、報酬の遅延に耐えられない状態であり、その意味で「未来」の失認を意味している。

 ところで、この「遅延」を許容しうるか否かに「理性」が関与する。この場合の理性とは「正しい行いを選択させるもの」という意味で「善悪の区別」は含まない。たとえば、将来の大きな報酬を見込んで、詐欺師や強盗団が計画的に行動する場合、それは「理性的」であるといえる。現在に追い立てられている場合、最短距離で報酬を得られそうな(多くの場合は)暴力行為を選択するのは、その意味で理性的ではない。

 最短距離で報酬を得られ、かつ、社会的である方法が二つある。ひとつは「買う」こと。一つは「命ずる」ことだ。両者は、時に「理性的」であり、ときに「暴力的」でもあるが、いづれにせよ、これらの方法が可能な者は「権力者」と呼ばれる。

 とここまでは余談。

 エロスは「性への欲望」であり「「生」そのものの欲求」だが、「「生きること」への欲望」ではない。「生」は自己犠牲を払ってでも「種」を残そうとする場合があるからだ。「快楽欲求」は「刹那的報酬」であるのに対し、「エロス=性=生」の欲求は、「未来の報酬に対する欲動」である。

未来の在り処

 報酬系は、将来的により大きな報酬が見込まれる場合、目先の困難を容認する。

 自らの命の時間を越えた未来の「場」により大きな報酬を見込んだ場合、その快楽は「時間=刹那」軸にではなく「空間=移動」軸に移動しているのだ。

 「未来」は「時間軸」にあるのではなく「空間軸」に存在し、「意識」上にではなく「肉体」上に存在する。

輪廻 映画の喩えの誤り

 「意識=時間」とは、断続的であり、「物=肉体など」こそが継続的だ。

 これは「無常」と矛盾しはしないか? 否。元来が「真如」の分節によって存在する「単体」であるいじょう、これは継続的にあり続けるからである。物は継続的でありかつ不変ではない(滅ー生の繰り返し)という状態において「存在」を(モーフィング的に)相続されていくからである。重要なのは、この途切れなく継続する物を認識する「意識」が断続的であるという点だ。意識は時間だからである。

 よく出てくる映画の喩え(スクリーンとフィルムと光で「空」を説明する場合の)で説明を試みようと、さきほどまで思っていたが、今は、上映されている映画の喩えは誤りであることがわかる。

 この喩えは、多様性あるエロスあふれる世俗世界が存在するように見えるているがが、実は光がなければ何も映らず、スクリーンがなければ光景は顕れず、フィルムがなければただの光だけしかない。それにフィルムにあるのは、ぶつぎれの場面場面だけである。だから、この世界があるようにみえるのはこのような「②縁起」によるものである。とかいうやつだ。

 この喩えの問題点については『ブッダの方舟』などでも指摘があったが、まず「光」とは何か? なぜフィルムがあるのか? スクリーンが空だとすると「空」が存在することになるのではないか? 映画が終わってもスクリーンは残る。いや、そもそも映写機だって、フィルムだって、その場に「有る」ではないか。そもそも、それをかけている映写技師と、それを見ている観客というのは、何なんだ? こうした視点は、映画館を俯瞰から見なければ成立しないぞ! とまあ、あまりにも不完全なのである。フィルムに関しては「イデア」論に助け舟を求め、スクリーンを(劣化コピーの投影場所としての)脳、光(=映写機)を意識とでもすれば、古代ギリシア形而上学のたとえには焼きなおしできそうではあるが、仏教的には×である。

 むしろ、継続する、共時的な、「物」世界を、断続的な、経時的な、「意識」が、「カメラマン」となってして撮影し、かつ、その現在撮影している映画(経時的世界)こそを現実として生きることで、肉体の継続性および共時性(=輪廻する身体)を信じられないでいる存在者、が我々を含めた森羅万象なのではないのか。と思うのだ。

 無論、カメラマンが持つカメラとは「肉体」である。記憶とはフィルムに相当し、それを上映するにあたっては、もはや映画館など必要ない。ただ、液晶画面で再生すればよいのである。

 つまり、「映画の比喩」が不完全だったのは「映画」というテクノロジーの限界にあったのだ。

おわりに

 ということで、今年最後のブログは、思い切り突っ走ってみた次第。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。