はじめに
基準はもっていていいと思う。たとえその基準が人それぞれであり互いの基準を互いに受け入れることができず、己の基準を押し付けあうという不毛ないざこざが起ころうとも、「表現に芸術性を見出す基準」は、それぞれが持っていてしかるべきである。
基準となるもの
芸術か芸術でないかの区別をつけるためには相応の教育が必要であるが、この教育は「美学」「哲学」といったものに限らない。ただ「芸術」とはどのような事物なのか、という定義を自らがもつことができればよいのだ。
芸術とは役にたたない物である。芸術とは投機対象である。芸術とは絵画である。芸術とは美しいものである。芸術とは感動を与えてくれるものである。芸術とは生命のすばらしさを認識させてくれるものである。芸術とは本物そっくりに作られた模造品である。芸術とは爆発である。芸術とは未来との通信である。芸術とは感動させてくれるすべてである。芸術とは、美術館に展示してあるものである。芸術とは、芸術とは……
それぞれが何を手がかりとし、何をもって芸術と看做すのかの基準をもてばいい。そしてそれを押し付けようとすることも自由である。しかし、私は私の基準を押し付ける必要を感じておらず、かつ他人の基準を気にしなければならないほど社交的でもない。
私にとって「芸術性」とは「静謐な詩情を感じられるか否か」の一点である。なぜ「静謐」なのか。なぜ「詩」なのか。今回はそれをまとめておこうと思った。
静謐さ
静謐さ、とは、表現方法や製作過程の実際的な「音量」に関わることではない。たとえば、レッドツェッペリンさんの「移民の歌」にも、棟方志功さんの版画の製作風景にも「静謐さ」はある。それは「孤独に没頭する姿勢」がもたらす「静謐」さなのである。どのような喧騒においても、どれほどわめき立てていようとも、狂乱の渦に翻弄されていようとも、頭の一部は冷静で、そのような自分を客観的に見ていた……、というような冷静さとも違うものだ。
もはや、客観ー主観などという区別もなくなって、ひたすら没頭したところで、偶然に掠めてしまった「何か」が、その表現に流入してきてしまうことがあるのだ、その流入した「何か」の痕が「静謐」を湛えて表れるのである。
私小説が「私」を突き抜けて「普遍」へ通ずると信じられていたように、「個の天才」が「忘我の彼方」に垣間見る何か、わずかな裂け目から流れ込んできた微かな風の痕跡を、見事に「表現」に含ませることができ、その「何かのわからない静謐さ」を感受できた表現を、私は「芸術だ」と認めることができるのである。
ここに、忘我による没頭ということと、自我の去勢による没頭とはまったく異なることを付け加えておく。他からの強制によって自我を捨てて全体のために尽くす、マス・ゲーム的な行為は、この世界の表層を滑るのみでこの世を出ることは無い。洗脳によっては真如には至らない。だが、われを忘れるほどの没頭と、洗脳による一途さとの区別は、簡単にはつかないし、後述する理由によって、そこに「静謐さ」は皆無であるとは言い切れないところが厄介なところだ。
認める
認める、などと上から目線の言葉を用いるのには理由がある。
第一には、芸術とは我々にとって「崇高な下僕」であるべきだと考えているからである。
第二には、その芸術性を認めるか否かを、「投機対象」として考える場合、その「認める」という言葉を用いられるのは、画廊主であり、鑑定士、ということになるだろう。彼らの判断によって、価格が決定するからである。だから、彼らが「認める」のは芸術手的価値ではなく市場価値なのだ。私は私にとっての芸術的価値の基準の話をしているのであるから、それを芸術と認めるか認めないか、という言い方で正しいものと考えている。
それはなぜ静謐なのか
「天才」もしくは「偶然」が、この世界に現れている事物の縁起から、掴み出してしまった「何か」の痕跡とは何か?
私はそれを「表現しえぬ何か」だと捉えていて、その認識は「仏教」から来ており、それを学んだのは中沢新一さんと、俳句からだった。
だから「何か」とは「真如」と言い換えてしまえば通りがよいわけだが、実は「真如」といったところで「何か」以上のものを表しえているとはいえない。だが「真如」とすることによって「静謐さ」という属性を説明することは可能となるわけで、ここでは「真如」に引っ張られておくことにしたい。
真如
真如とは、涅槃寂静と表されるように、完全に静寂であるとされる。無論、この状態から「エネルギー」が発生する仕組みを、私はずっとわからないまま今日に至っているのだが、ここでは素直に、「この世では分節によって隔てられている真如という静寂の属性をもつ実相が、天才もしくは偶然の表現に貫入した結果、その作品が静謐さを湛えるのである」と考える。
芸術の器
私は「芸術」が、この世のゴタゴタを映す鏡であったり、ミニチュアールであったり、シュミラクルであったりするような、チンケなものではないと思っている。だから、そのレベルで説明が尽きてしまうような表現には何の価値も見出せないし、そのような表現は芸術ではなく社会運動として展開すればよいと考えている。表現の自由というものは、芸術の専売特許ではないのだから。
表現の自由、というと「芸術かワイセツカ」という二分法の焼き直しを延々と繰り返しているばかりで、これは芸術の矮小化にすぎない。また赤瀬川さんの偽札裁判なども判例として有名だが、様々な「芸術とは」という問題提起には芸術性は皆無だ。
芸術だからあらゆる法令の目を逃れられる、などということは許されるべきではない。たとえば私は殺人犯人の行為に前述したような「静謐さ」を感じられたとすれば、それを芸術だと認めるし、犯罪は処罰されなければならないと考える。芸術だから犯罪ではない。などという理屈は通らないし、それは芸術性とは無関係のことである。
詩情
詩情。という言葉は誤解されている。私は中沢新一さんの定義を採っている。つまり『詩とは「真如」という表現不可能なものを表現しようとする試みであり、偶然に表現し得た事物の全てである』というようなものだ(これは私が理解した範囲でのものなので、これが中沢さんの詩の定義である、というわけではない)。
だから、詩の形式でなくとも詩は存在する。というか、私が認める芸術の全ては「詩」なのである。当然にしてそれは「静謐」だ。
山川草木悉皆成仏
ここで問題となるのは、この世はすべて「真如」の分節的顕れである。ということである。つまり、真如の現れの痕跡が認められるモノを「詩」と呼ぶのであれば、この世の全ては「詩」に該当することになる。なにしろ、この世は真如そのものなのだから。
だから、芸術性を認めらない表現であっても、それは芸術と同じ成り立ち方をしているのである。それを私の芸術からどのように排除することが可能だろうか?
定型詩
なぜ「詩」なのか? ここでこの問いを発するのはいささか唐突だろうか?
「詩」とは本来、ひじょうに厳格な定型の遵守を求める形式であった。なぜ、このように表現の不自由な形式を強いる必要があったのか?
それは「言語」という「分節の権化」を用いて「未分節の真如」へ至るために、絶対的に必要な制約だったのだと考える。「分節」とは「意味生成」である。そして意味は次々と意味を生み出して、世界を分節し続ける。言葉を発すれば発しただけ意味が意味を縛り、分節は複雑化していく。そのように、言葉は意味によって真如を覆い隠す器官として人間に寄生し人間を規制しているのである。そしてそのレベルを突き抜けることのできない(つまり詩情を持たない)表現は、私は芸術から排除できると考えている。
あってなきがごときもの
残念ながら、人間は言語によって思考する。アーラヤ識は言語で埋め尽くされている。そして「真如」はその言語アーラヤ識を突き抜けたところで悟るしかない在り方をしているのだ。
それゆえ、言語の使用には最大限の注意が必要だった。「詩」はもともと「真実」を表すためにあったが、それはいまや「世界の実相」「真如」に届くものとして在るのだと思うのだ。
表現されたもの以外に表現されていると感じられる事。それを顕著に感ずるのは俳句である。極度に切り詰められた形式によって、鑑賞者が勝手に意味を付して理解しようとしている。という解説は捨てていい。芸術に理解は必要ないし、そのような鑑賞こそ詩を殺すものだと思うからである。この「俳句」については、後日「平和俳句」として例句を挙げていきたいと思う。
非言語的作品
言葉を用いない表現なら、そうした危険を回避できるだろうか?
そうとばかりもいえない。私たちは現象を知覚する以前に、情報を処理しようとする省エネ回路が発達しているからだ。つまり、見たり聞いたりしているものを、意味として分類して、実際には見たり聞いたりした経験を吟味することなく「見た」「聞いた」と済ませている場合が多いからだ。これは「写生論」に通ずる内容になるので省くが、絵画を描く場合も鑑賞する場合も、何が描かれているのかに拘泥していては「詩」を逃すのではないかと考える。
おわりに
「詩」そのものを示すことはできない。だがそれが表現されており、かつ鑑賞者が「意味」に縛られることなく感受できるのなら、それは見逃されるものではない。なぜなら詩は「理解」という時間のかかるものではなく、同時体験されるものだからだ。つまり、それを鑑賞した瞬間に「詩」と感知できるからである。
だから、これを「説明」することはできないし、この「芸術論」を共有することもできない。その意味でこれは「悟り」に似ているのだ。というよりも、芸術を認めることとは悟ることと同じなのだといってしまいたい。
だから私は、たくさんの芸術に触れたいし、見出していきたいと思っている。