望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

大地震 トンボ ユウクリ 飛でいる ―熊谷守一語録

ことあるごとに思い出す。熊谷守一さんの作品は言葉によらない俳句であると思う。
わたしは既に、熊谷守一さんについてのまとまった感想ブログを書いていたと思っていたのだが、過去記事検索してみると、まだ手付かずだった。

熊谷守一さんと高野素十さんとを並べて論ずることも、まだできない。

そこで今回は、熊谷守一さんの語録のなかから、「俳句」に通ずるところを抜き出しておこうと考えた。それは、部分のようで全体であり、一瞬のようで永遠であり、単純化のようで純粋化である。

「俳句」に通ずるとは、つまり全ての芸術に通ずるということだ。芸術とは詩であり神の姿を垣間見ることに他ならない。(神とは一神教の神という存在ではなく、奇蹟であり不思議である世界そのものに顕れている「一」とでもいうべき事である)

※以下の出典は

「別冊太陽 気ままに絵のみち 熊谷守一平凡社 2005年7月20日)」 (太陽)

熊谷守一画文集 ひとりたのしむ (求龍堂 2002年5月25日 第6刷)」(画文集)

である。

熊谷守一語録

「絵と言うものの私の考えはものの見方です。」(太陽p.33)

「私は写実だけれども幾らか違って、とにかくそれをぽやぽやしてやったのです。」(太陽p.37)

「景色がありましょう。景色の中に生きもの、例えば牛でも何でも描いてあるとするのです。それが絵では何時でもそこにいるでしょう。実際のものは、自然はそこにいないでしょう。その事の描けている絵と描けていない絵とあると思います。」(太陽p.39)

「絵なんてものはいくら気をきかして描いたって、たいしたものではありません。その場所に自分がいて、はじめてわたしの絵ができるのです。いくら気ばって描いたって、そこに本人がいなければ意味がない。絵なんていうものは、もっと違った次元でできるのです。」(画文集 九十五歳 1975年)

「世の中に神様というものがいるとすれば、あんな姿をしているのだな、と思って見とれた。」(太陽p.97)

「絵のうちに音がある人とない人とあります。持ち味が違います。」(太陽p.108)

 いまは見えなくても、そのときおりおり、芽を出して花を咲かせ、実をつけるいろいろな草木があって、この植えこみのぐるりの道は、ただ歩くのならものの二分とかからないでもとに戻れる範囲ですが、草や虫や土や水がめの中のメダカやいろいろなものを見ながら回ると、毎日回ったって毎日様子は違いますから、そのたびに面白くて、随分時間がかかるんです。(画文集 p.64 96歳 1976年)

「私はいろいろなものの出来た過程を知っているということを欲しがるんです。例えば電車に乗れば電車の構造を知りたい。同じ魚を食ってもその魚がどこに泳いでいるとか、そういうことを知っていればなお面白いみたいな気がします。」(太陽p.125)

「獨楽」人にはわからないことを、独りでみつけて遊ぶのが、わたしの楽しみです。(画文集 96歳 1976年)

紙でもキャンバスでも何も描かない白いままがいちばん美しい。(画文集 95歳 1975年)

中学にはいると、絵の時間があってたしかエンピツ画だけを描いていたようでした。絵はますます好きになっていましたが、わたしは他の人のように一生懸命やるということはしません。別になまけようとするわけではないのですが、絵を一心に描こうという気は起きない。好きは好きだが、ただ好きだというだけで、だからどうだというその先はないのです。(画文集p.17 91歳 1971年)

七月三十一日
午后九時
ランプの光を枕して
よれよれのかすりに
むねをあらわし
(ダラシナク)
少し古いタオルを
首にあお向に
片手をむねに置く
自分をかがみで見る
ギ画になる
(画文集p.18 28歳 1908年)

本当はわたしは手紙は大の苦手なんです。結婚前にかあちゃんに、わたしが出したのは「セロ鳴らず」とだけ書いた一通だけだったそうです。(画文集 p.22 95歳 1975年)

 二科の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵が描けるか」と聞かれたときなど、わたしは「自分を生かす自然な絵を描けばいい」と答えていました。
 下品な人は下品な絵を描きなさい、ばかな人はばかな絵を描きなさい、下手な人は下手な絵を描きなさい、と、そういっていました。
 結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしひょうとしても、ロクなことにはなりません。
 だから、わたしはよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。(画文集 p38 91歳 1971年)

ここに住むようになったのは、昭和七年で私が五十二歳のときです。それから四十五年この家から動きません。
 この正門から外へは、この三十年間出たことはないんです。でも八年ぐらい前一度だけ垣根づたいに勝手口まで散歩したんです。あとにも先にもそれ一度なんです。(画文集 p.62 96歳 1976年)

これまでに死んだ鳥はみんな庭に埋めました。土に還って木の肥になるでしょう。(画文集 p.68 95歳 1975年)

わたしは好きで絵を描いているのではないんです。
絵を描くより遊んでいるのがいちばん楽しいんです。
石ころひとつ
紙くずひとつでも見ていると、
まったくあきることがありません。
火を燃やせば、一日燃やしていても面白い。
でもときに変わったことがしてみたくなります。(画文集 p.74 95歳 1975年)

 まえに写生に行ったとき、描く風景が見つからないので、仕方なく、畑のわきの彼岸花を描いていました。横でお百姓さんが、黙って畑を耕していました。
 どこからきたのかわからないが、その彼岸花にかまきりが、大きな鎌を振りながら上がってきた。かまきりも入れてまとめると、そう嫌いじゃない絵ができmさひた。
 するとお百姓さんがそばにきて、絵をのぞき、よくできたねとほめてくれました。(画文集 p.78 95歳 1975年)

わたしは生きていることが好きだから他の生きものもみんな好きです。(画文集 P.91 96歳 1976年)

地面に頬杖つきながら、蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです。(画文集 p.92 96歳 1976年)

絵を描くのに場合によって、
初めから自分にも何を描くのかわからないのが自分にも新しい。
描くことによって自分にないものが出てくるのが面白い。(画文集 p.96 91歳 1971年)

一般的に、言葉というのはものを正確に伝えることはできません。絵なら、一本の線でもひとつの色でも描いてしまえばそれで決まってしまいます。青色がだれが見ても青色です。しかし言葉の文章となると、「青」と書いても、そんな感じの青か正確には分からない。いくらくわしく説明してもだめです。
 わたしは、ほんとうは文章というものは信用していません。(画文集 p.98 91歳 1971年)

入谷の太郎稲荷には柿の木があって、小さな臭いどぶ川があってお稲荷さんがあって、それを「太郎稲荷」と称するのです。全体は黒と灰色が主ですわね。ふつう、景色っていえば派手なものを探してきて描くでしょう。それをわたしはひと月ほど頑張って描いたことがあるんです。夕方描いたものだから、時間がないのでひと月くらいかかったんです。それで時間がたってみると、そんな馬鹿らしいものをそう長くやったってことが、「あ、こんなところに目をつけてたのか」って思って自分で驚くんです。そのことがなにかおかしいみたいな気がする。その絵は人にあげたんだけど、行方知れずになっているんだよ。………
 人にあげちゃってもっていてもらうと、後で見て「あ、いいなあ」と自分で思うんだ。
 無くなるとさっぱりするんだ。………
 まあ、仕事したものはカスですから。カスっていうものは無いほうがきれいなんだよ。(画文集 p.100 94歳 1974年)

おわりに

人はみな表現者であることを拒否できない。それは存在者に課せられた宿命で、すべての表現は、濃淡、明瞭不明瞭の差はあれどれもみな「一」の体現なのである。存在という限定された在り方によって、「一」の表現は千差万別の様相を呈する。その「一」への純度が高いものが「詩」である。というより、存在の全ては「詩」の濃淡なのではないかと思う。「詩」を薄めるものが「欲」であると、ひとまず仮定するとき、存在は最低限度の「欲」がなければ生まれないことから、純粋詩は不可能であることが明白となる。あたかも影のない光が存在できないように。

絵か言葉か。そして言葉と詩との関係は。

詩の言葉は、いわゆる一般的な言語セットを逸脱する運用方法であることは以前書いたように思う。詩の言葉も詩の絵画も詩の音楽も詩の舞踏も、「一」に向かうのだという漠然とした、だが確固たる確信をもって、さらなる材料集めをする日々を送る予定である。