望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

自由律俳句を定形に戻してみる ―『井泉水句集』を読みながら

はじめに

昭和十二年一月七日発行 新潮文庫の『井泉水句集』は、いただいたものだ。
この中の

星が出てくる砂にソーダ水の椅子 (p145)

は、わたしに「キュビズム文」なる方法論を授けてくれた一句であるが、それはまた別のお話で。

わけのわからない衝動

座右において何度も読み返している句集の一つなのだが、この間ふと「これは自由律である必然性があるのだろうか」と疑問に思う句がいくつかあるのが気になった。使用している語句はほぼ替える必要はなく、季語も入っているので、ほんの少し整えるだけで定形にすることができる句だ。

そういうことが気にかかると、やってみずにはおられない性格なので、オリジナルと機械的に定形に整えたものとを並べてみようと思う。

とりあえず30ページほどの中から目についたものをサッっと整えてみた。というのが今回のブログである。

無意味

井泉水さんは自由律俳句のパイオニアである。だからといって、定形になるものを無理やり自由律にする、などという乱暴なことをするとは思えない。それが、定形でも定形の破調でもなく、自由律でなければならない意味がある、とここまで考えて、「意味がある」などという囚われた考え方こそ「自由律」にふさわしくないと思い直した。

感じるままを俳句にする。ただそれだけだ。

その「感じる」が「俳句」であるか否かにかかっているのだと考えた。

そして「俳句」である「感じかた」とは「定形」で鍛えなければ供えることが難しい「境地」なのではないかと。「境地」というと漠然とした感じのように思われるかもしれないが、「俳句」ほど明確な詩形はないとわたしは考えている。

となれば、井泉水さんの句を定形におしこめるなど、風を囲い、雲を留め、水を汲み置くがごとき無粋な試みといわざるを得ない。

が、わたしは素人なので、そのような愚直な比較がおもしろいのである。

機械的定形化作例

p14

初空の水田の四五枚を家のまへ→初空や水田四五枚家のまへ

出でて並木の元日のゆききにまじり→元日のゆききにまじる並木かな

反橋がある元日の子供を連れてくる→反橋や元日の子を連れてくる

p16

我家の見えて枯草山をおりてくる→我家見て枯草山をおりてくる

ふゆ日のそよ風はある一むらの竹→一むらの竹へふゆ日のそよ風よ

p.17

枯草に店を出したのは蜜柑うり→枯草に店を出したる蜜柑うり

p.18

寒明けの雀が鳴いてゐる掃いてゐる→寒明け雀の声や掃いてゐる

寒明けの日の出近き雲の一つ二つ→寒明けの日の出を雲の一つ二つ

空は寒明けの夕日が杉のこずゑ→寒明けの夕日は杉のこずゑかな

ほのかに白く寒明けの海が見えるところ→寒明けの海ほの白く見えしかな

p.19

垣から麥畑にして梅の二三本→麥畑なれども梅の二三本

p.20

梅の木があつて咲いてきた垣の外→梅が木に花咲き初めし垣の外

p.21

住みて竹垣の早春の雨にぬれる→早春の雨に濡れるや竹の垣

音は早春の雨の庇をめぐらしてゐる→早春の雨の庇をめぐる音

濡れて明けた路がずつと早春の田の中→早春の田中や濡れて明けた路

p.22

白墨の手を洗ふ水もぬるんでゐる→白墨の手洗ふ水のぬるみかな

p.23

櫻咲き残り温泉にも散つてゐる→咲き残る櫻の温泉にも散りにけり

げんげの青んだ田のげんげ咲きそめた→げんげ田の青にげんげの咲きそめし

春の夜少しの星へ遠い花火揚げてゐる→春の夜の少なき星へ遠花火

p.26

蜜柑の花の伊豆に来て雨やんでいる→雨止みし蜜柑に花の伊豆に来て

p.27

夕雲や遊動圓木は水平→夕焼や遊動圓木は水平

五月の登山電車で谿の橋の見えたるに渡りゆく→谷に橋五月の登山電車にて

p.28

日盛の汽船の笛が鳴りわたりしばかり→日盛の汽船の笛や鳴りわたる

p.29

おり立ちてすでに涼しく夕べなる木→おり立ちてすでに涼しき夕べの木

唐黍の夜風の海へは行かない道→唐黍や夜風の海へ行かぬ道

p.30

向うの部屋も河鹿鳴く障子明けてゐる→河鹿鳴く向うの部屋も障子明け

おわりに

こうして定形を意識してみると、「切れ字」の効用が沁みる。自由律は切れ字を用いないし、口語体を常とする。つまりそれは、「現在完了形」を意識した詩形ではないかということだ。

「ゐる」止めの多用は、けっして「現在進行形」を意識したものではない。むしろ「ゐる」と締めることで、時間は静止するのである。自由律は過去からの継続が今で断ち切られる瞬間を定着させる。そんな感じがした。

折を見て、続けてみたいものだ。そしてこのように定形に書き直すことが出来ない自由律俳句こそが、わたしが好きな自由律なのである。