望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

詩はフレーズに宿るか ―『現代短歌の鑑賞101』より

はじめに

現代短歌の鑑賞101はひじょうに読み応えのあるアーカイブである。

www.shinshokan.co.jp明治三十六年生の前川佐美雄さんの
「胸のうちいちど空にしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし」
から、昭和四十五年生の梅内美華子さんの
「蜜蜂が君の肉体を飛ぶような半音階を上がるくちづけ」まで、
101人×30首のアンソロジーだ。

 

 今回は、この本のレビューでも、好きな歌人の紹介でもない。

 読むことと詠むこととの乖離をひしひしと感じ、かつ短歌を作り続けようとするときの、散文よりも詩でありたいと願う私の短歌感に関する覚書である。

短歌の支え

わたしには短歌は難しい。ながく散文を書き続けていたせいだ。情報伝達のための論理的組立、因果、帰結に破綻のない叙述の訓練を、ながく続けていたためでもあるし、何よりも「判る」ことを「文章」の目的としてきたからだと思う。

 俳句は季語を含めた十七音と切れ字とによってそのような散文的構築を不可能にしてくれる。だが、短歌には三十一音あり、それは散文による叙述を十二分に可能とする長さであり、かつ制約がなさすぎた。その自由度の高さ。まさにそのことが、私の慣れ親しんだ「散文脳」を放棄することを躊躇させるのだ。

そんな折、支えとなったのは島田修二さんの次の言葉だった。

 何かを言おうとするのではなく何かを伝えようとするのでもない。とにかく五つの詩を書くのだ、と思うことです。(言葉へのあこがれをもつ)

言葉を離れる

散文的であるとは、言葉の通俗的な意味での「意味」を最大限にドライブさせるということである。ときとしてそれは自律的な運動を始め、定型句、紋切型へと文を誘う。つまり思考を誘導しさえする。

だからといって、言葉を単なる「音」としてのみとらえて組み立てて、詩を産み出すことなど、天賦の才がなければ不可能だろう。私はあまりに「言葉」に執着しすぎる。ならば、その執着を徹底して通俗回路を焼き切ればいいと、始めたのが、マンダラートやマインドマップの導入だった。

 その成果は、散文的短歌から、無意味な散文的短歌として結実した。これも一つの成果であることに変わりはない。だが、その短歌はたんに、共感を得られない、奇を衒った、文字面だけの存在にとどまっている。そうなる原因は明らかだ。

 つまり、「詩」がないのである。

 それでは「詩」はどこにあるのか?

「犬」には詩が隠れている。「飛行船の犬」が、無意味な散文的短歌のフレーズだとすると、「青い犬」は詩的で、「飢えた犬」は単なる説明である。例えばそういうことだ。

現代短歌の鑑賞101から

本書が最後に取り上げている歌人は梅内美華子さんだ。

梅内さんは、それまで本書に取り上げらえていた歌人のなかで、エポックメイキグとなった人たちの要素を自家薬籠中のものとしている。

階段を二段跳びして上がりゆく待ち合わせのなき北大路駅

「悪いけど」を必ずつけて頼む君月草の瑠璃とんぼに喰わす

空をゆく鳥の上には何がある 横断歩道(ゼブラゾーン)に立ち止まる夏

大いなる空振りありてこれならばまだ好いていよう五月の男

夜は大きな青馬なれば浅黄色の目をうるませて鉄路を渡る

蜜蜂が君の肉体を飛ぶような半音階を上がるくちづけ

北大路駅」が詩になるのは、「待ち合わせ『なき』」場所でありながら「階段を二段跳びして上りゆく」からで、一つ一つの句は少しも詩的ではないことに驚かされる。だが、この短歌の「北大路駅」はひじょうに特別な場所に感じられる。

「悪いけど」で始まる短歌は、はじめ俵万智調だが、下の句との関係が意外だ。だが、十分に詩的と思われる下の句が、機能不全をおこしているようにも思われる。

「大いなる」は俵万智さんそのものである。

わたしは俵万智さんの短歌も短歌論もひじょうに素晴らしいと思うことを、まずお断りした上で、彼女こそが「うたの別れ」を具現化した人だと思っている。短歌は「詩」である必要がないと宣言したのが『サラダ記念日』だった。まさに、記念日なのに「サラダ」というタイトルが示していたのは、そういうことだったのだ。

 これは、ダウンタウンが漫才を脱構築した、というのと同等の意味をもつ。ダウンタウンが示したのは、漫才とは「ツッコミの間」である。ということだった。だから、オールドタイプからは「チンピラの立ち話」といわれようともビクともしなかった。それこそが漫才の本質だと示したからだ。

 同様に俵万智さんが示した短歌の本質は「定型」だった。それは詩である必然はなかった。想いを定形に収める作業こそが短歌の秘跡だと、示したのである。天才的な比喩もトリビアリズムも不要。定形の(感情をも含めた)写生文であること。そこからしか短歌は発生せず、それ以外に短歌はない。比喩やトリビアリズムはたまたま付与されるにすぎないのである。

「空をゆく」は空間的な歪みを越えてがっちりと掴み取られた夏が詩として表現されている。質問と、その答えに悩む様子。ととらえても、シンプルに質問と回答ととらえても、横断歩道、道路という平面的広がりと空を行く鳥という縦方向の広がりといった効果が、結語の「夏」を巨大にし、かつ収斂する。

そしてあとの二つは、短歌的比喩の表現であって、むしろすでに陳腐とすら思われるほど、この形式は短歌すぎる短歌だと感じるのだ。

詩はフレーズに宿るか

梅内美華子さん

発砲性の年齢・レプリカの教会・匂い立つ塩素・ゆうぐれの耳

吉川宏志さん

くちづけのとき外したる眼鏡・いっぷう変わった瓶・ゆらゆらと坂

おわりに

などと拾ってみようとするが、あんがいフレーズだけに頼った歌は少ないと思い中断する。では、詩を感じた短歌をランダムに拾ってみることにする。

うつくしき睡をねむる仔牛いて桃の木の下は日かげ濃くなる 坪野哲久さん

晩夏光おとろへし夕酢は立てり一本の壜の中にいて 葛原妙子さん

馬跳びの子らの遊びを見下ろすに馬として待つ子の背の孤独 宮柊二さん

桃二つ寄りて泉に打たるるをかすかに夜の闇に見ている 隆康国世さん

ラッシュアワー終りし駅のホームにて黄なる丸薬踏まれずにある 奥村晃作さん

破魔矢よりはずせる二つ鈴振れば金と銀とがともどもに鳴る 玉井清弘さん

貝殻骨あらはに夏のひかり浴びホルンを運びゆく海辺まで 黒木三千代さん

休日の鉄棒に来て少年が尻上がりに世界に入って行けり 佐藤通雅さん

パンだねに汚したる手を拭ふ午後しづかに雲の聖歌隊過ぐ 小島ゆかりさん

魚食めば魚の墓となるひとの身か手向くるごとくくちづけにけり 水原紫苑さん

春の風ゆるみほとりと地蔵町小児科醫院に外灯ともる 川野里子さん

絡みつく無数の蔦のあるごとくエレベーターゆるやかに停まれり 大塚寅彦さん

以上は、抜き書きしたノートを適当に開いた場所にあった短歌から拾ったものである。

詩はどこにあるか。ではない。

詩はどのように再構築できるか。である。