望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

ボトルメールとしての表現 ――誤配されるテキストは感情的に処理され新たなテキストを生む

はじめに

 ある表現者の表現をテクストとして扱うことは鑑賞者の特権であり、限界でもある。なぜなら、表現者と鑑賞者との間の隔たりは決して埋めることができず、他者と自己とは決して、同一化されないからだ。また、同様に表現者と表現との間にも隔たりは存在し、その意味で自我とは常に表現するものとされるもの(シニフィアンシニフィエ)とに分断される。こうした隔たりを調整し統合を実現させているのが脳であり、自我とは本来的には「多数の叫び」である。

『批評空間 1999Ⅱ-21 いま批評の場所はどこにあるのか』の冒頭の座談会(東浩紀、鎌田哲也、福田和也浅田彰柄谷行人)を読み返した。その前の座談会で、自らのテキストがデリダの二期とパーフォマティブな文体とは全く異なるコンスタティブな文体であったことを執拗に攻められた東氏は、この座談会では、コンスタティブなテキストの誤配可能性を高めるため、状況へパフォーマティブに介入する必要性を力説した。それは他の人々には全く受け入れられなかったが、その受け入れられなかったという事実そのものが、パフォーマティブであったともいえる。それによって『存在論的、郵便的』は、確実に「誤読」可能性を高めたことは間違いない。

共感(ミラーニューロン)・専制

 ともあれ表現者は、自らの表現を、なるべく誤配されないようコンスタティブに行うべきであり、かつ、誤配されることを前提すべきであることは、いうまでもない。それは、多数の声からなる自我のうちから、ある声を選択しその声をテキストに落とし込むという作業である。表現者にとってテキストとは、常に明確なテーマと旋律とをもつ楽譜として作成される。だが、その楽譜を演奏する鑑賞者にとっても、テーマと旋律が明確であるという保証はない。なぜなら、鑑賞者は多数の声をもってその楽譜を演奏するからである。

 人々は、動作や動作の際に生ずる音に同調することにより、感情を他者と同期することはできる。(以下の書籍参考のこと)

www.minervashobo.co.jp

 だが、テキストに直接する同調する機構はない。テキストを読み込み、それによって「共起」する感覚が引き起こす感情が、そのテキストへの反応を決する。ここで問題となるのは、テキストを演奏する身体内外の状況であり、作者に対する既存の心象であり、それを読んだ他人の身振りや感情である。

 人間は「固定観念」を揺るがす事物に着目する(過剰に反応し、拒否反応を起こす)という。また、それとは別に、自分の「固定観念」を補強するもののみを受け入れようとするバイアスがあるともいう。(前掲書参照)

対機説法

 作者が作品に対してパフォーマティブであることは、「表現」が鑑賞者に与えた心象を、公式が介入して改変しようと試みることだ。読者の固定観念を覆す表現を拒絶した鑑賞者を愛撫し、許容してもらうよう仕向けること。相手の誤解を、より「心地よい誤解」にすりかえようとすることだ。

 それに加えて、「誤配」の確率を高めることで、テキストの魅力を高め、時を超えて発見され続けるよう提案するという場合がある。その場合は、そのテキストを、作者本人が率先して読み替えていくというヒューモアが必要と考える。事後的な介入によって誤配可能性を高めようとすることが、単にコンスタティブなテクストがコンテクストのなかで受けた「誤解」を、ひたすら訂正し、弁明し、誤解した者に「否」をつきつけるものであったとしたら、それは専制的態度といわざるをえない。それは愛撫ではなく、声の押し付けであり、強要である。

 それよりは、釈迦の対機説法のように教え諭す姿勢のほうがよいと思うのだ。そこに「否定」はない。鑑賞者の声に寄り添いながら、その声とは別の声のあることを示す態度。可能性を否定するのではなく、その可能性から新たな道のあることを気づかせること。

 仮に、そのテクストが魅力的に誤解可能なものであったとしたら、公式の「演奏」を強要することは、楽譜を貧しい物とするだけではないだろうか。時を経て、その楽譜を魅力的の魅力を引き出す演奏者が表れたとき、作者は、そのコンテクストから消されてしまうだろう。

非対称な関係

 表現者とは常に他社の前の公的存在であり、その表現はテキストとして仮想的な鑑賞者に投げ出される。それは柄谷さんが指摘してきたように「教えるー学ぶ」という非対照的な関係を結ぶ。それは、「教える事物」と「教えられる事物」とは決して一致しない。ということを示している。

 その時、表現者は「教える」つもりなど毛頭ないかもしれず、鑑賞者は「学ぶ」つもりで相対しているわけではないかもしれない。にもかかわらず、表現者は「一」であり、鑑賞者は「多」であるという数的非対称性が、理解という図式そのものに内包されており、従って、多が一を「教える」ことはできず、一が多を「理解する」ことはできない。たとえその場におけるやりとりが、一対一であったとしても、表現者の発する声は一つであり、鑑賞者の身体内に響く音は多なのである。無論、表現者と鑑賞者とは随時入れ替え可能である。だが、ボトルメールとして流されたテキストと、その鑑賞者の間には、その逆転は見込めない。公人の言動を大衆が受け取る場合も同様である。

感情で理解する

 テキストはコンテクストにおいて、鑑賞者の「信条のマトリクス」に配置され、なにがしかの感情が引き起こされる。そして、その感情に引きずられるように、それまでのマトリクスも変化する。テキストが直接的に信条を変えさせるのではない。そこには鑑賞者の理性と感情とが介在し、感情がより支配的である。その際、忘れてはならないのは、「表現」と「表現者」との隔たりだ。そして、鑑賞者にとって、「作家(表現者)」とはまず「作品」によって存在する。だから、表現者と表現、作家と作品とを混同してはならない。

 

おわりに

 表現者は誰かに何かを届けようとする。鑑賞者は表現者が提示したはずの何かから、好きなものを選びとる。そして、手に入れたものが期待通りだった、とか期待はずれだったとかいう感想を持ち、それを表現する。現代では、そういう感想を公にするメディアにことかかない。そして、それをボトルメールとして公にした直後から、それはまた誤配されるテキストとなり、さまざまな感情とテキストを生み出していくのである。