望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』を私すること

はじめに

 1998年10月に出版された本書を、2020年6月に読む理由は、現在、私が考えている事に有用であろうと思ったからだ。

 書き手と読み手との間に生じる「時差」を明確に意識することも、その考えている事の一つだった。

 また、パロールエクリチュールの問題は、リアルタイムでのコミュニケーションの問題であり、それはテクストの問題とは共通しない、という点もその一つだった。

 そして、我々はほとんど何の知識もなくテレビ番組を見ることができるが、それを享受できる「ハードとソフトの両システム」の詳細を語り尽くすことはほとんど不可能である(ここには「クオリア」問題をも含まれるのだから)のにもかかわらず、その「不可能」を究明しようとする姿勢を貫くときに陥り勝ちな「思考停止理論」(広い意味での「オカルト」)を排除しうる「システム」は可能であるか? という点も検証されなければならなかった。

 結論として、この本はひじょうに示唆に富んだフラッグを立ててくれたと思う。問題は、これらのフラッグを私MAPの何処にどう立てればよいのか、ということである。

感想1

 「批評空間」を呼んでいて、この論文と書籍化後についてはほぼリアルタイムで知っていましたが今回、初めて手にとって読み始めています。
 「書字」と「発語」、作者と読者の間にある絶対的な時差。そしてその時差は作者本人にも絶対的に存在し、作者とあらゆる器官や信号伝達の時差、隙間に事後的にしか顕れていないのではないか。その絶対的時差をわたしたちは単に「相対的」な時差とみなすことで、「正常」という「粗雑さ」を甘受しているのではないか。
 というような内容の『永い屁』という、タイトルだけが決まっている文章を書かねば、と思い立ってはや半年が過ぎました。その間に、ひっかかってくる書籍や動画などを見聞しつつ、メモを作ってきたのですが、ジャック・デリダさんは、どうしても避けて通るわけにはいかないということが、明らかになったわけです。
 それで、ジャック・デリダさんについて、という副題のついた本書が家にあるのに、読まないで済ますわけにはいかないとおもって、手に取ったわけですが、案の定、基礎知識の不足のため字面をおいかけるばかりとなりました。
  しかし、この本が書かれた当時よりもさらに人々の生活、いや人々の「自意識」に深く浸透したSNS社会を考察するとき、本書はますます重要なものとなるだろうと思いました。
 それはつまり、デリダさんの射程において現代の先にある自我と自我同士の解体(またはより自在な離反と融合)が、身体を事実上エポケーしうる社会において促進し、人類のすべてが幽霊と化した社会におけるディスコミュニケーション論となりうるのではないか。
 などという荒唐無稽な着想を得たところで、ひとまず終えておこうと思います。

時差

 本を読む。それが書かれた時と読まれる時との時差。

 書かれたのは過去で、読んでいるのは現在であり、それについて考え、語り、書くことは未来の現在進行形であること。

 書き手自身においては、書字よりも脳内発語が先行する事実(私は完全黙読ができないタイプであることは以前このブログで書いたことがある。

 

mochizuki.hatenablog.jp

 そのような者が文を書く場合は、かならずそれを読み上げている。キーボードで文字入力している時、読み上げと書字とはほとんど同時だが、ほとんど、ということはそこに時差があり、むろん、読み上げが先行し、モニター上に打ち出された文字の連なりを「文」として再び読み上げる際に、一回目の「検閲(あえて推敲ではなく検閲と書く)」が行われている。つまり、エクリチュールは先ずは必ず二度読まれており、二度目は書き手であることをすでに離れているのであるから、書き手が真に書き手としてエクリチュールに触れられるのは、ただ一回きりで、それ以降はテクストとして取り扱うことが可能になる。

 時差は書き手と読み手をそれぞれ匿う。エクリチュールは、それぞれはそれぞれに安全な隔たりを保つことを可能とする情報の伝達形式の一つである。だが、これはコミュニケーションを成立させない。なぜなら、コミュニケーションとは必ず、双方向的でなければならないからだ。双方向的であるためには、時差は少ないことが望ましい。そして先ほどの、脳内パロールエクリチュール化においても、当然時差は発生しており、脳内発語と書字と、書字の目視による発語との間に、すでに「誤配」可能性は存在している。

 衛星放送、トラフィック過密による遅延、コリジョンによる混線などが、異様に滑稽であったり(フリーズする画面や、途切れる音声などによって、存在はたちどころにシュミラクルと化し、安易にエイリアン化するところは、昨今のWEB配信の広がりから、納得できることと思う。知人がバグル姿を見るのは、ホラー的ですらある。このようなことが起こるのは、動画がエクリチュールに属するものだということを意味している。ここで、動画に映し出されている物は全て、「書字」と同じ役割を果たしている。となれば、純粋なパロールとはどこにあるのか? 

 また、このホラー的感じは、テクストにおいては、誤字脱字(以前ブログで書いたことがあった)や、落丁・乱丁本において感ずることができる。

 

mochizuki.hatenablog.jp

 こちらは主に、「言語セットが乱れ」を感ずるところに原因がある。これらの違和感とその相違はひじょうに重要と考えているが、それはまた別のお話で。

幽霊

 固有名を取り上げると幽霊がついてくる。言語は経時的に意味を変化させていく。名前を構成する一音一音にも「感じ」がついてまわり、それらの音を使用している名前の性質が構成する一音一音に「感じ」を逆輸入する場合もある。一音一音に「色」がついており、その色をひきずって「名」が構成され、その「名」で示されるものは、歴史・地理的に変遷していくが、それぞれにおける「感じ」は長らく引きずることになって、名に言外の「感じ」を付随させる。だが、そのような「感じ」は、そのような背景を充分に経験したネイティブであるか否かによって貧富が生じてしまう。それは単純な「知識」といったもので補われるものではなく、DNAレベルでの刷り込みといった、非科学的なルーツ以前にまでさかのぼる射程を提出することすら可能である。

 とくに、俳句、短歌などで「名」を用いる際は、このような「背景」を熟知し、その読み手のネイティブ具合を想定して上でなければ、伝えたいことが伝わらないかもしれないことを考慮することとなる。現実的には、この「名」に憑いた幽霊をコントロールすることは不可能である。(「名」とは言語表現の全てを意味する。私は、名詞のみならず、動詞も形容詞もその他の全ての品詞も全て「事」の比喩としての「名」だと考えているからである」

 ポストモダンにおいては「固有名」は削除されるはずだったのだが、現実は「匿名」「ハンドルネーム」などが蔓延する社会となった。それらは当然「固有名」として機能し、一瞬のうちにコミュニティーを席捲してアーカイブとして埋もれていく。リアルタイム(撮影編集地点でのリアルタイムではなく、コミュニティーに公開された時点での今)であることが最も重要で、それに対する反応もまた、可能な限り即時応答であることが望まれる。逆に、公開から時を経て閲覧数を稼ぎ続けるコンテンツとは、つねにそれが「今」であり続けていることを意味する。「オワコン」という言葉が多用される評価軸では、「今」であり続けることこそが求められている。作り手にとって、それは過去のものでしかない。だがそれが「今」であり続けること。それはある意味、幸福なエクリチュールの在り方だといえる。エクリチュールとは受け手にとって、受動的コンテンツであると同時に、送り手にとってもまた、受動的にあり続けるコンテンツなのである。テクストとは誤読する姿勢であり、エクリチュールとは誤配されるシステムだ。

感想2

 ほぼ読み終えまして、浅田彰さんが帯に「『構造と力』はとうとう完全に過去のものとなった」と書いた意味が、すこしわかった気がしました。
 小説が常に既存の物語や小説を書き継ぐことによって、既存を揺るがせ、既存の意味を問い直していくしかないように、哲学もまた、いや哲学こそが、そのように思惟されるしかない学問であること。
 『構造と力』、その時点での「既存」を徹底的に消費しつくし、もはや書き継ぐ糸口すら滅してしまった後で、いったい、「時代」は「思想」は「哲学」は「文明」は「人間」は、やはり限りない循環に落ちるしかないのか、または、そのような焼け野原からも書き継ぐべき接ぎ穂は発掘されうるのか。
 それがこの『存在論的、郵便的』であったのだと思いました。
 その地平を開いたのは、デリダフロイト であったという点。マルクスに縛られすぎない点。そして、ドゥルーズガタリの仕事への接続。などが特徴的だったように感じました。
 コンスタティブであるべきかパフォーマティブであるべきか。という点はあまり響いてきませんでしたし、この本がきっちりと読みやすく組織されていることがその答えなのだろうと思います。
 あとがきに、「今後の自分の哲学的な仕事は「この私」とは徹底的に無関係なものとなる」と書かれていた。エクリチュールが郵便的であること。それはまた、エクリチュールが私的であることを意味している。そして、パロールもまた、「マジックメモ」の読み上げであるのだとすれば、すべてのコミュニケーションは常に誤配される可能性をもち、それらは従来のように「批判」の対象なのではなく、「カウンセリング」の対象としてあり、その文体は、アサーティブな「ミラーリング」によらねば、「否定神学」の罠に落ち込んでしまうだろう。
 精神分析とは、ミラーリングによる被験者自身の自己解体による解放を意図しているのか。ミラーリングによるからこそ、施術者はつねに「転移」の危機に「我」を曝すのだとするならば、エクリチュールをいくら形式化したからとて、「この私と徹底的に無関係に」為すことなど、不可能なのではないか、と思った。
 この本は、東さんの最初期の仕事でありそれから20年以上が経っている。だから、その後の東さんのコンスタティブおよびパフォーマティブな仕事をきちんと知ることでその取り組みは知ることができるだろう。

 とはいえ、そのためだけに東さんの仕事を追いかけようという気にはなれないでいる。

おわりに

 本書後半では「コーラ」がとりあげられています。「コーラ」といえば、中沢新一さんが『フィロソィア・ヤポニカ』などでひじょうに刺激的に採り上げていましたっけ。ということで、ながらく途絶していた『レンマ学』を読み終えようと思います。