望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「お茶の水」問題

はじめに

twitterにこんなこと書いて、ずっと考えている。

お茶の水」ってすごく尖ってて洗練された表現だと思うから、この感じの関係性を探してるけど、ぜんぜん見つからない。
朝顔の種(関係が違う)
目玉焼きの卵(韻律がよくない)
昨日の今日(対象が異なる)
カレーのルー(いい線いってるかも)
無茶な夢(違う)
味の素(社名)

 今回はそんなブログ。

お茶の水」って何?

 フレーズとして「お茶の水」とは、ふつう言わないと想う。このフレーズに違和を感じない人は、今回のブログはつまらない。

1.お茶にする水

 お茶にするために火にかけて沸かすための水をとっておいてある。

2.冷めて水になったお茶

 かつて、お茶だった水、という時間経過を含む表現。

3.茶道に使用する水

 1.に似ているが、お茶のお点前に使う特別な水。

4.「お茶」に含まれている「水」の部分

 これは、禅問答めいている「水」と「火」と「茶葉」によって「お茶」が生成されたとき、「お茶」は「水」を含むか? 「水」は「お茶」の材料だが、「お茶」の成分か?

考えては捨てていく

納豆の大豆(関係はあってるけど)
北京ダックのアヒル(同上)
砂漠の砂(たぶん、関係性がズレてる?)
彼女の彼(少女マンガ)
下駄箱の札(主従や相互補完の関係じゃない)
鞭の傷(韻は近いけど)
里の秋(雰囲気はある)
メレンゲの卵白(長い)
花の種(集合がひろすぎる)
ケーキのクリーム(ケーキが複雑すぎる)

 お茶と水の関係を、「素材」と「完成品」と捕らえ、しかもその間の手順はさほど複雑ではなく、必然的に時間経過を含有した関係性を示して、なお「素材」も「完成品」も端的で一般名として浸透しており、かつ「お茶」は茶道を「水」は地球、命、潤い、などさまざまな比喩的背景が広がっている言葉である。

ゆで卵の卵

 ゆで卵の卵というフレーズは、完成品と素材という観点と、時間経過、「卵」の比喩世界において、「お茶の水」に比肩するかに思われた。
 だが、「ゆで卵の卵」は「お茶の水」に比べると、ひじょうに「当たり前」すぎ、単純にいって、「力」がない。
 理由は、並列された言葉のいづれにも「卵」という同じ言葉が使われているためだろ。「ゆで」+「卵」という複合語は、「お茶」というシンプルなワードに比べると弱いのである。

壷の土

 このフレーズを得て、「似てる!」と思った。土+火=壷である。
だが何かが違う。

「私の男」なども視野に入ってくる気もしますが、
水→茶 という生成過程の連続性も無意識下に働く分、
私(だけ)の男 という関係では押し切れないのかもしれず、
お茶の水」を「水のお茶」とひっくり返すと意味が違うという点も重要なのかなと思ったり……

 ここで、「お茶」と「水」とを入れ替えたときに起こる現象に思い至る。
お茶の水」は入れ替えると「水のお茶」という矛盾したフレーズとなる。これに比べると「壷の土」を」ひっくりかえした「土の壷」は矛盾がない。

 実はこの問題は、「時間経過」と「材料と成分」という観点から明らかになっていたことであった。「壷の土」は時間経過要素をクリアしていた。

お茶の水」は近い将来、「お茶」になっている(であろう)「水」という、未来完了形的な言い回しをひねってあるような感じもある。だからひっくり返したときに「水のお茶」という矛盾的な、または「さめてしまったお茶」という時が反映されたフレーズとなる。(水出しのお茶の可能性もあるけども)
「アヒルの卵」といえば、それはたんに「卵」だ。
お茶の水」をたんに「水」として納得しかねるところに、さらに重大な秘密があるのだろうか?
ヒルは卵を産む。お茶は水を生まない。熱は重要。
お茶には水は含まれていないのか。
お湯とお水とは異なる性質をもつものだから。 

 
 「水」は「お茶」の成分であるか? に答えるのは難しい。だが、「土」は「壷」の成分であるか? との問いには疑念の余地がない。

ハンバーグの挽肉、も
挽肉のハンバーグ、とひっくり返したとき
意味が通り過ぎておもしろくない……

 薔薇の砂

 と、ここまで考えていて自分は「お茶」「の」「水」という「意味」と「因果関係」のみを手がかりに、言葉を言葉としてのみ取捨選択していたことに気づいた。

 因果関係を離れることこそが「詩」の作法である、という基本を完全に失念し、ただ「言葉のパズル」として、「お茶の水」問題を取り扱っていたのだと気づき、大いに反省したのだった。

 意味にがんじがらめになっていたせいで、世界は広がらず、弱いフレーズしか想起できなくなっていたのだろう。字義を離れた「お茶の水」というフレーズに塗れ、その意味する物ではなく、その縁起する事を感じるのでなければ、到底、このフレーズに比肩することを得ることはできないだろう。

 そのようにして思いついたのが、

薔薇の砂

明日の今日

俺の壁

といったものだ。道は果てしない。(twitterではかなり「似てる!」ものを寄せていただいたりもしている。その位相はとても詩的だ)

おわりに

お茶の水」問題。いかがだっただろう?

 いかがも糞もない、というところではないだろうか。わたしは日々の大半、こんなことを考えている。