望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

寺山修司さんの短歌と俳句

はじめに

 俳句に関しては俳論的なものを読んだり考えたりしているが、短歌についてはあまり深くは考えず「文」の延長で書いている。五・七・五・七・七 の三十一文字は、心情を吐露し、物語を作るのに適した形式だと思われる。

 これは私が好きな短歌作家が、石川啄木さん、俵万智さん、夢野久作さん、北原白秋さんであることに起因するものだろうか。

 穂村弘さんの著作を読めば、現代短歌のよい意味で奇妙な作品の豊かさに触れることができ、短歌は叙情。俳句は叙景。という私の考え方の古いことが明らかなのだが、それらのジャンルに貢献できる才能を持ち合わせておらぬ気楽さから、好みを貫く事を恥じることはないと開き直って、私はこのようなものを書いてるわけである。

 なお、和歌。となるとまた少し感じが違う。和歌は叙景に叙情を託すという点で、形式上は俳句に近く、俳句よりもウエットな気がしている。今回のブログに和歌の要素は皆無である。

そこで、寺山修司さんである。

寺山修司さんの短歌

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寺山修司青春歌集。平成4年3月15日改版初版(角川文庫)
※この「改版」問題についてはこのブログでは触れない。単に私が最初に手にした寺山さんの短歌集であったということでここに挙げた。

 寺山さんの短歌には「若さ」が漲っていると感じられた。さらに、土着性。家。血。といった生々しい抑圧、しがらみに抗う反抗心に溢れていた。

短歌拾遺

『空には本』昭和33年6月

桃いれし籠に頬髭おしつけてチエホフの日の電車に揺らる

桃うかぶ暗き桶水替うるときの還らぬ父につながる思い

啄木祭のビラ貼りに来し女子大生の古きベレーに黒髪あまる

夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

マッチ擦るつかのま海の霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

『小市民の信仰的な日常の呟きから、もっと社会性をもつ文学表現にしたいと思い立った。(中略)私性文学の短歌にとっては、無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである』(僕のノウトより)

 寺山さんと言われて思いつくキーワードばかりで作られた短歌だなと思う。そして「無私」=「嘘」として、さまざまな出自、家族、遍歴を我が物語として告白する寺山さんの手法の萌芽を、この姿勢にみることができる。

『血と麦』昭和37年7月

きみのいる刑務所とわがアパートを地中でつなぐ古きガス管

麻薬中毒重婚浮浪不法所持サイコロ賭博われのブルース

海の記憶もたず病みいる君のためかなかな鳴けり身を透きながら

『私個人が不在であることによってより大きな「私」が感じらるというのではなしに、私の体験があって尚私を越えるもの、個人的体験を越える一つの力が望ましいのだ。』(私のノウト)

「私的嘘」を離れ、自分だけではない、他人の個人体験をミックスした演劇への方向が見いだされる。また、同時にこの考え方は「写生俳句」の神髄に迫るものでもあることが、おもしろい。

『テーブルの上の荒野』(未刊行)

中年の男同志の「友情論」毛ごと煮られてゐる鳥料理

冬の犬コンクリートににじみたる血を舐めてをり陽を浴びながら

わけもなく剃刀とぎてゐる夜の畳を猫が過ぎてゆくなり

これらは非常に「俳句」的だと思う。

田園に死す』昭和40年8月

大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらづやつばめよ

新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある一本の釘

かくれんぼ鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭

まさに天井桟敷であり、映画でもある、各シーンとしてぴったりの状況が描かれる。

『短歌は孤独の文学だ』と寺山さんは言う。

短歌は五・七・五に対して七・七というレスポンスをもつが、それは合わせ鏡のように「私地獄」に閉じ込められてしまうモノローグであり、私的な形式であった。だから寺山さんが、1970年11月に歌の別れをして、反動から演劇や映画などに没頭するのは、当然だったといえる。

『初期歌篇』

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット

夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む

このあたりは、寺山さんの「詩」の世界が色濃く表れていると思う。

東北の肉体性

 寺山さんの「故郷」「家族」「血統」などの「呪術的」なドロドロとしたしがらみとの葛藤。溶け合うような「母」との関係。恐ろしい影として立ちふさがる父の存在。死んだ妹。発狂する姉。行方知れずの弟。、東京への憧れ。捨て去るべき故郷。運命。とにかく「血」「血」「血」。

 中沢新一さんの『哲学の東北』によれば、東北には不透明で強靭な「肉体性」があり、単純に「形而上」を認めない風土があるというが、まさにそれを体現したのが寺山さんであったと思う。

寺山修司さんの俳句

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寺山修司俳句全集 1999年5月28日 あんず堂

寺山さんの俳句は15歳から19歳の間に詠まれた。ひじょうに若くして上手い俳句を詠んでいる。私が好む「写生」はほとんどなく、短歌に詠まれた内容がほとんどそのまま俳句になっているように感じらる。

 なんというか、短歌の途中。という印象を覚えるものが多い。

 多分、寺山さんにとって「俳句」は適当な入れ物ではなかったのだと思う。

 1953年『牧羊神』によって全国の高校生を組織するという「結社の力」は俳句が備えている力だったろう。だが、寺山さんは結局、俳句によらなくとも、自らが人を集める魅力を持っていたのであった。

 寺山さんは俳句を離れた理由を、その「モノローグ性」だと言っている。だが、それと同じ理由を、歌の別れに際しても述べていた。土着の合わせ鏡の中でいくつもの「私」に身悶えることに倦むと、演劇や映画などの開かざるをえない方法論に邁進し、それのみでは晴らせない怨みのようなものを再び「短歌」「俳句」で表す。これらの表現を行き来しながら、寺山修司という人は自らの存在と世界とをすり合わせていたように感じる。

 旧歌壇において、寺山修司さんの短歌が俳句の模倣であると問題視されたということを『―歌集』の解説者である中井英夫さんが指摘している。俳句に七・七を足したり、ニコの俳句を組み合わせたりした作品が多数見受けられるのは事実である。また、「詩」において同じモチーフが変奏されることも多い。

 それが悪いことだとは思わない。ただ、「俳句」であることと「短歌」であること。の境界を寺山さんがどこに置いていたのかと考えてみる。両者は全く別の表現形式であると明言している寺山さん自身が、俳句の省略部をあえて限定するかのような七・七をつけたり、キーワードともいえる言葉を使いまわしたりするのはなぜか。

 ZAZEN BOYS向井秀徳さんが、『繰り返される諸行無常よみがえる性的衝動』の歌詞を使いまわすように、そのようにしか表せず、くりかえすことでしか主張できない何かをもち続けていたこと。「シーン」を切り取って、それらを編集することで、自らが主張したい事の精度を高めていくPOPアート的手法にも似たやり方を、禁じないこと。それでいて、「ライブ・ライフ」感、疾走感、空気感を損なわないようにすること。「俳句」であることの意味とか、「短歌であることの意味」などは、とっくに離れていてその時に手近にあった筆記具の、情念と理知のバランスにふさわしいメディアを用いて、とりあえず表現することを寺山さんは考えていたのかなと、今は思うのである。

拾遺

『花粉航海』15歳~18歳

目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹

チエホフ忌頬髭おしつけ桃抱き

父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し

林檎の樹ゆさぶりやまず逢いたきとき

午後二時の玉突き父の悪霊呼び

桃浮かぶ暗き桶水父は亡し

夏井戸や故郷の少女は海知らず

暗室より水の音する母の情事

わが夏帽どこまで転べども故郷

秋風やひとさし指は誰の墓

蛍来てともす手相の迷路かな

出奔す母の白髪を地平とし

母とわが髪からみあう秋の櫛

蛍火で読みしは戸籍抄本のみ

眼帯に死蝶かくして山河超ゆ

便所より青空見えて啄木忌

『われに五月を』昭和32年

胡桃割る閉じても地図の海青し

『わが高校時代の犯罪』昭和55年

心中を見にゆく髪に椿挿し

おわりに

 寺山修司さんは非常に多方面で活躍した表現者であったが、表現してきたものは非常に一貫していたと思う。よくもわるくも、どこをとっても寺山修司さんであるという「私」の強さが、東北のもつ「肉体」の強靭さとせめぎあっていた人生だったのかなという気がする。

 とりわけ、私にとっては「短歌の人」である。俳句も演劇も映画も、短歌の乱反射の賜物であるように感じられる。それはノスタルジックであるが古びてはいない普遍性を獲得している。

おまけ またしても川端康成さん。

寺山修司青春歌集』解説の中井英夫さんによれば、1954年(?)『短歌』4月号の「新人五十首」第一回で同氏が、中城ふみ子さんの「乳房喪失」を推薦し、同年六月に川端康成さんが同じく中城ふみ子さんの「花の原型」を紹介すると、旧歌壇の不評をものともせず、短歌大衆からの圧倒的支持を得たという。寺山さんも『短歌』が中城さんを推薦したことは大英断だった、と絶賛したそうだが、川端康成さんが、女性を推薦するときの態度については、精査する必要があると私は思っている。川端さん。短歌にはあまり恐れをいだいていなかったのかしらん。それはいづれまた。

 

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