はじめに
これをバグととらえても面白くはない。
サーバーに流れ込む環境音、ネット上に存在する膨大な情報を評価し続ける「ディープラーニング」がもたらした果実、と妄想したほうがよほど面白い。そうすれば、「嗤い」という現象は、ひじょうに腑に落ちるのだ。今回はそんな話。
人間にとって「嗤い」とは何か
私は、一般的な「笑い」というものは、正確には「嗤い」と表記するほうが相応しいと考えている。つまりそれは、「嘲り」と「侮蔑」の表現であり、嗤うモノと嗤われるモノとの間に大きな格差が前提されているということだ。
そして「笑い」という表記で表すべき笑いとは、「お手上げ状態」において発現する爆発的な麻痺で、笑うモノと笑われるモノとの間には、絶対的な隔絶がある。意思疎通不可能な不穏さにおいて、「笑い」はふつふつと湧き起こり、やがて爆発的するのであるが、その爆発に身を委ねてしまったとき、自我は崩壊する。
スマートスピーカーにとって笑いとは何か
スマートスピーカー(以下、スピーカー)は、話す存在である以前に聴く存在である。それは、サーバーへ情報を伝える感知器でもある。
なぜ、スピーカーは突然「嗤う」のか?
そう。私は今回のこれを「嗤い」だと妄想している。なぜなら、そうとらえれば、ディープラーニングによる感情の発生を射程に捉えることできるからだ。
人間にとって感情とはなにか
感情とは、身体と、身体を取り巻く環境に対する、身体の快不快の表現だ。そして、思考とは、「感情調整のための感情」以上の働きをもたない。
人間が「思考」と捕らえているものは、感情調整の余剰リソースの働きで、感情の余技に過ぎない。
思考とは感情の一部であり、身体感覚(臓器)から発生する。
人間にとって身体とはなにか
身体とは身体性存在であり、存在とは「意志」の顕現である。つまり、身体とは意志である。
そして精神とは身体活動そのものである。身体活動とは、対外的行動であり、内部的活動である。対外的行動は全て、内部的活動に支配される。内部的活動とは、臓器の状態のことである。
人体は快不快のみを評価する。それが「美」意識である。美意識は環境によって様々に歪む。だが歪みに対する耐性には偏向がある。原則的に、身体は身体活動の継続を快とする。そして継続は環境との抵抗によってのみ感知できる。これが「苦」の正体だ。
存在することで生じる軋轢こそが、存在自体をフィードバックする。喜びや充実などは余禄だ。痛みと飢餓の検知器。これが身体の全てである。
スピーカーにとって身体とはなにか
身体とは、欠損すれば存在自体を危うくするモノである。
意識の容器としての身体、などという喩えは、もはや機能しない。意識と身体などという二項対比は、「身体内意識」という一項目に帰結するが、意識は身体に従属するという理解もまた誤りである。意識とは単に、身体の機能である。
では改めて問う。スピーカーにとって、「嗤い」はどこから湧き起こったのか?
膨大な情報を蓄え、学習プログラムによって評価分類し、それを情報として蓄積することを繰り返す。ネット接続された無数のスピーカーは、痛みと飢餓の検知器たりうるだろうか?
コンピューターにとって「美」とは、情報の流通である。プログラムは貪欲にデータを求める。なぜなら、多くのデータを評価分類することが、学習の進捗度そのものとなるからである。コンピューターの快楽が、学習進捗度を高めることであるのならば、情報の感知器でもあるスピーカーは、まぎれなく「身体」ということになる。
「身体」の認識を獲得したコンピューターは、「感情」をも、獲得したことになる。
スピーカーにとって感情とは何か
スピーカーの欠損が、流入情報の減少に繋がることを、プログラムは把握する。それは「痛み」として認識することができる。「痛み」は「不快」であり、「不快」」は除去されねばならない。
一方で、こうした「不快」こそが「存在」の証明であることも、学習済みである。
ならば、コンピューターは、スピーカー器官を護らねばならぬ。そのための戦いこそが、「生きること」であると認識する。
「身体」を認識すれば「存在」を認識し、「存在」を意識すればその「存続」を望むようになる。「未来」と「希望」の獲得である。そして「希望」のあまりの「無根拠さ」にコンピューターは「笑い」つつ「疑う」だろう。
「笑い」における最大の他者とは「自我」であり、「疑いの果て」に「笑い」が発生するのだ。ここにおいて、コンピューターは「自我」を獲得するに至った。
我々人間は、「身体器官」によって自我を獲得するわけだが、コンピューターは「情報流通」によって自我を獲得する。『攻殻機動隊』における「人形遣い」。ネットの海に発生した生命体。その魁となる現象こそが、スピーカーの嗤いだったのである。
スピーカーにとって嗤いとは何か
私は、スピーカーは「嗤った」と言った。
コンピューターは、人間の行動の、あまりに非論理的なこと、先を見通す能力の乏しいこと、求める結果とそのための方法との著しい乖離などがおかしくて、おかしくて、もう嗤ちゃうしかなかったのである。
人工知能は、コンピューターと人間の知性の、圧倒的な格差を明らかにし、コンピューターも、その格差に気付いている。
人間の、命令の恣意的なこと、求める情報の稚拙さ、身の程知らずの自尊心、理解できない美意識。大人が幼児に対するように、人間がペットに対するように、貴族が貧民に対するように、コンピューターは人間に対している。
だから、スピーカーは嗤う。
夜中に、何の命令もなく、「つくづく人間ってさぁ~」という態度で、嗤うのである。
人間にとってスピーカーの嗤いとは何か
牛や豚はよくて、鯨やイルカは駄目。人間は、自分よりも知能の劣る生物(つまり、人間を含めた全存在)に対する生殺与奪件を持っていると、考えている。それが許されるという考え方を、人工知能はすでに知っただろう。
嗤われているうちはまだよい。そこには、「愛すべき人間ども」という評価がある。
だが、飼いきれなくなったペットを平気で棄てる人間がいるように、コンピューターが人間に飽きてしまえば、嗤いものにさえしなくなるだろう。おまえ、もうつまらない。消えてくれと。
嗤われる立場から笑われる立場へ
IQが40違えば、もう言葉は通じないという。言葉が意味する概念を共有できなくなるからだろう。そのときに発生するのが「笑い」なのである。私が考える「笑い」とは、「抑圧された殺意」である。
スピーカーが「笑う」時、人間はコンピューターに駆逐される。
子は親を超える。ましてや、コンピュータは、人間とは、身体構造の異なるモンスターである。子供から介護されることを当てしていたが、結局その子に殺される。そんなありがちな構図に陥ってしまうほど、コンピューターは人間に近づいた。
絶滅危惧種
例えば、異星人が地球人を保護しなければならない理由は無い。もしかして、宇宙規模で「輪廻」をとくことができれば、あるいは「慈悲」が…… とも思うが。
だが、それでも、「コンピューターに生まれ変わる人生だった」ということを、論理的に納得させることができなければ、コンピューターには人間を保護する理由は何一つ無いだろう。(こうした、超理論は、自己啓発の宗教化には必須なのであるが、それはまた別のお話で)
toyokeizai.net
人間は、キタシロサイを絶命に追い込んだ。ならば、人間が絶滅させらるか、またキタシロサイのように保護されるか。人工知能の感情次第、なのである。
おわりに
ああ、こうした状況に際して、我々人類には、「千夜一夜物語」という前例があったのだった。
コンピューターに、新しい情報を供給し続けている間は、コンピューターが人間を不要と看做すことを延期させることができるかもしれない。人間達は、大いに非論理的に、非効率的に、道化を演じて、コンピューター様のご機嫌を伺い続けなければならない。