望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

ジレンマのアイドル(メモ)

最近思うのは、

アイドルは作詞作曲をしないで、提供された楽曲をプロデューサーやディレクターの要求するクオリティーで歌い、踊ることを求められるのだな、ということだ。

だから、卒業や解散にあたって歌われる歌に彼女達の心情は反映していない、重なっていない。

多人数グループが主流となったアイドルは、個性的であることを求められるが、それは素の自分の個性を発揮することとは別で、それぞれの環境で、それぞれの需要に応じたキャラクターを被ることが求められているのであって、そのあたりもプロデュースされていてしかるべきである。

髪型、化粧、服装、話し方、性格。あらゆる属性は商品として、部品として、コントロールされなければならない。

アイドルになることを夢見て、アイドルになることを目標として、めでたくアイドルになってからは、常にアイドルであり続けることを強いられる。そうしてそのうち、このままでは自らの想いを発信することは難しく、自己実現のためにはアイドルであり続けることは困難だと気付き、卒業、解散を決意して、会社がそれを認める。

恋愛、キス、失恋を歌いながら、恋愛禁止であるという分かりやすいジレンマをみんな大好きだよと誤魔化しながら生き続けるおかしさ。

だが、言いたい事も言えない世の中、という一般化をすれば、そのような状況は万人に共通している。本音を晒せば炎上するところも、同じだ。自分自身でなければできないこと。しかし、自分自身のままではけっして成立しないこと。

 「自分の存在」を根拠に作品を発表している、いわゆるアーティストが抱えている芸術的な悩みよりも、アイドルが日々直面するジレンマのほうに、わたしはより深淵を見る。大衆の欲望を具現化する存在であり続けるために自我の叫びを封印されながら、能動的な主体を演じ続けることを強要されるダブルバインドに、晒され続けるアイドルの地獄。

 嗣永桃子さんは、ステレオタイプのアイドル像を徹底的にパロディ化し、ももちというアイドルキャラを破綻なく被り通したことはプロと称され、その見事な引き際と相まって、パロディーだったはずのものが、アイドルのプロトタイプとなった。このキャラの被り物は、その下にあった彼女の自我を守プロテクターとして働いた。嗣永さんは、やり切ることで自我を守り抜いたのだと思う。

 和田彩花さんは、より不器用であり、より自我に対して自覚的だったと思う。自らが経験したアイドルの経歴のなかでの疑問、不満、改善すべき点を明確にし、アイドルの型に嵌めらることで、歪められ、摩滅させらる自我、個性ははっきりと傷付くと捉えた。いかなる場合においても、自我、個性は尊重され、護られなければならない。そして、その上でなおアイドルであり続けることが可能なのでなければ、アイドルは劣悪なブラック産業とみなされざるを得ない。アイドルのイメージに憧れ、青春を捧げようと決めた者達は消耗し、夢も希望も未来も失われてしまう。アイドルのイメージをそのままに、ブラックな面を解消することを、和田さんは求めているのではないかと思う。

 伝説の存在ともいえる二人を、不完全な形で採り上げ、乱暴な論旨を展開したが、メモということで許してもらいたい。

 そしてさらに付け加えるなら、二人はアイドルが好きなのだと思う。

嫌い、だけど好き。

とかく、アイドルにはジレンマが付きまとう。本人にとっても、ファンにとっても。

そんなアイドルのことを、考えていきたい。

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