望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

只事ではないタダゴト ―正岡子規さんの俳句

はじめに

何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか。作者にとって、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考えても疑問であった。所がこの病気の間、初めて漸くそれが解った。(中略)退屈もそれの境地に安住すれば快楽であり、却って詩興の原因でさへあるといふことを、私は子規によって考えへさせられた。萩原朔太郎『病床からの一発見』より

子規さんの俳句には「だから何?」というタダゴトがひじょうに多いことは事実だ。しかし、彼が作った2万句におよぶ俳句の中には、タダゴトがタダゴトではない風情を纏う句も多い。

そもそも、そのようなタダゴトを、詠んだ、という事実が、タダゴトを「選択されたタダゴト」へと昇進させているのであり、なぜ、そのような当たり前を詠んだのか? という疑念は、そのタダゴトとの距離感を狂わせる、ということはあるのだろう。

あの子規さんが、詠んだ情景だから、という欲目、色目、も働いたりするのだろう。

また、例えば、病床で詠まれたとか、愛娘の死を前に詠んだ、などの事情を知れば、タダゴトはタダゴトではなくなってくるだろう。

しかし、私はそのような「作者」を抜きにして、五・七・五 で写しとられた情景そのものを問題にしたい。

俳句は、「季語」と「切れ字」とによって、「言い落す」ことで言わぬことを感じさせる形式をもつ。だがこうした特徴を含めた「語感」こそが、俳句の要諦であると私は思う。

明らかに言い足りていないものを、自動的に読み手が補完する。因果や理由を説明すれば、それだけで終わってしまう。俳句では「現在」を「即物的に」放り出せばいのだと思う。人間の頭は、その「物」を「ストーリ」の中で理解したがるのだ。すると、俳句の情景は、読み手の想念と一体となって、広がっていくのだと、私は思う。

それと同じような感覚は『新・耳袋』の形式において感じるのであるが、それはまた別の話である。

今回のブログは、これまでに書き留めた僅かな俳句の中から、只事でないタダゴト俳句をいくつか記録しておこうと思った。状況、捉え方、俳句技巧。そういった目立った特徴も、奇を衒ったひねりも感じさせないのにも関わらず、そこにあるタダゴトが、時に不穏であったり、時に深淵であったりする。

これらの俳句のタダゴトでない感じというものは、一体、万人に共有されるものなのか、私個人にのみ刺さるものであったのかを問うてみたいのである。当然、句の鑑賞や解説は一切しない。考えるな、感じろ。である。

正岡子規さんの「只事でないタダゴト」句集

時雨るゝや海と空とのあはひより

馬子一人夕日に帰る枯野哉

ぬぎすてた下駄に霜あり冬の月

散る花のうしろに動く風見哉

夕立にうたるる鯉のかしらかな

門を出て十歩に秋の海広し

夕顔や裏口のぞく僧一人

涼しさや石燈籠の穴も海

夕風や白薔薇の花皆動く

秋風や道に横たふ蛇のから

一列に十本ばかりゆりの花

フランスの一輪ざしや冬の薔薇

鷄頭の十四五本もありぬべし

以上