はじめに
とてもおもしろかった。スピノザさんを読むのに役立った。『探求Ⅱ』(柄谷行人さん)を読み返したくなった。
以下にこの読書で得られたテーマを羅列する。将来の(ブログの)肥やしのために。
※今回のブログは、引用符外にも、この本から借りてきた文言で溢れている。それでちょっとかしこくなった気分になっているが、実はまだ生煮えなのだね……
得たこと
その1 意志は行動の源ではない
能動態に受動態が対応する世界に生きていると、疑いすらしない「意志」の存在。「意志」は欲望を満たすための選択決定に、遅れてやってきてその選択に取り憑く。「意志」と「欲望」と「選択」とを区分し検証すれば、「意志」の不在が証明される。
この論旨はひじょうに分りやすく、意志と責任とをリンクさせたこの社会の根本を検討する上で、ひじょうに有用である。
その1-2 意志はオカルトである
人間は自分自身の歴史をつくる。だが思うままにではない。自分で選んだ環境のもとでなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである。
※ この引用文に多用される「れる、られる」は受動表現ではない。それは、「生まれる」「死ぬ」「見える」などが受動ではないことと同様である。また、「自分自身の歴史をつくる」という文言から「再帰的表現」ともとれるが、「与えられた環境のもとでつくる」とある以上、環境と自分とは分けられない。従って、自分の外から自分に帰ってくるという構造をもつ「再帰的表現」とも異なっていることが分る。つまり、中動態とはこのような態を意味している。そして、この「環境」とはスピノザの「神」と等しい。
選択の結果が今であり未来である。未来とは現在ある可能態が展開する表面だ。
無数の選択の因果関係を一つ一つ検証していくのは不可能だが、選択した過去の未来たる今が、その選択の結果であることは間違いが無い。
なぜ、その選択をしたのか? それをいつどの段階で決定したのか? この特定不能な時機を確定しようとするとき、「意志」があらわれる。「意志」とは、デウス・エクス・マキナであり、神の思し召しであり、思考停止宣言にほかならない。
その1-3 意志と未来
「今」という「過去にとっての未来」は、選択の場においては、必然ではなかった。「こうありたい」という欲望の充足のために最善と思われる選択を行い、そのようにしてつくった環境が自分である。
ラプラスの悪魔にとって未来は確定的だ。だが我々は「意志」に逃げることで未来を不確定な、自らの意志が介在可能な未決態であると考えることができる。そしてそれで十分なのである。
その2 私は時差に存在する
ドゥールズさんによるデカルトさん「我思う」と「我存在す」は「故に」ではつながらない。それを繋ぐ形式が「時間」だという点。感官のズレは、対象と被対象とを区分する明確な距離として意識できる。
その2-2 十二因縁
ただし、ここでは「思い」によって「モノ」が生じ、「モノ」によって「時間」が生じ、「時間」によって「存在」が可能となるという順序が採られていた。
「存在」は「コト」としてあるのだから、「モノ」が「コト」に先立つ考え方は受け入れられない。「モノ」は「コト」の仮定断面に仮象として顕れる。
十二因縁では、「行」と「識」とははっきりと区別されている。「行」はコトであり、渦状を成す。その渦によって内外とが区分された状態が「識」で、その散逸構造体が自己組織化を始めて「名色」が生じ、次第に個の区分が明確になっていったところに、「存在」「誕生」がある。
その3 責任ある大人の自覚
西洋哲学において「中動態」が消され「能動態ー受動態」という形式が採用されたのは、「哲学」が「自我」を基準としたからだ。この「自我」を基準とする傾向は、「科学的態度」に導かれたものと思う。
その4 尋問する言語
博物学的姿勢においては、出来事の記述が重要であった。出来事は能動でも受動でもない存在の様態である。
動詞はもともと行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示していた。非人称(単人称)の動詞が中動態が担う意味を獲得し、その派生として能動態、受動態ができ、やがて、能動態ー受動態の関係が勃興し、人称が重要となった。そして中動態は「自動詞」「再帰表現」「使役」等に分割された。
出来事を描写する言語から行為者を確定する言語への変化。能動と受動た対置される言語を、作者は「尋問する言語」と呼ぶ。これは、行為者を特定し、その行為が意志によることを認めさせ、その責任を負わせることを意味する。以上は歴史的事実であり、その上にこの社会は成立している。
※ 出来事を描写する言語とは、いわゆる「文」の文体であり、写生の態である。
その5 出来事から考察するとき「動態論」が有効となること
ストア派は表面の効果を発見した。ここに、動態論の始祖とすべき潮流が明らかとなった。ジル・ドゥールズさん『意味の論理学』は読まなければならない。
(スピノザの)表現の概念は原因の意味を変容させ、原因と結果の階層構造を破壊する。(中略)原因が結果において自らの力を表現する。(アガンベン)
作者はこれを「中動態的存在論」と名づける。原因が結果において自らを表現するという出来事は、
出来事が起こると同時に、出来事が起こる水準である表面そのものが発生する。
のであり、
重要なのは、事物の状態から出来事へと(物体)の混合から純粋な線と深さから表面への産出へと向かう動的発生である。
とする。このことから、世界はたえず変化流転し、表面と内面との区別はもはやつかないということが分る。動態論は、作用ー被作用という区別を受け付けない。世界は互いに関連しあって変動しつづける。
その5の2 だが「空性」には至らない
個物はたえず他の個物から刺激や影響を受けながら存在している。
との認識は、前述したように「個物」からはじまる議論であって、三性でいえば、「依他起生」の位置だ。
仏教においては、遍計所執性から依他起生をへて円成実性へいたる(そしてそのまま遍計所執性的世界へ戻る)ベクトルを志向するのであるが、「自我」の存在を証明したい西洋哲学においては、「絶対の一」「神即ち自然」を立てておいて、そこから現在の社会そのものにある「遍計所執性」を取り出そうとしているのである。だから、「個物」を離れることはできず、「ぼんやりとした不安」が解消することは絶対にないのである。
その6 自由とは
スピノザの自由は自らが能動であることだ。
われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているときわれわれは能動である。
そしてそれに対する概念は受動であり、受動とは強制されることである。
逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。
ここでは、カツあげの例が取り上げられたりしている。
その6-2 判断するのは?(試論)
しかし、「われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現している」と判断するのは誰なのか? それが本質である以上、それが表現されていることは自明だとでもいうのだろうか? 自分が判断する場合、その判断はなにによって担保されるのだろうか?
(個物が他の個物からたえず受けている)これら刺激と、(自らの)変状する能力との相関関係において、一定のしかたで変状する。そしてその変状が欲望としてわれわれを決定する。
ところで、
感情はなによりもまず欲望である。
外部からの刺激をどう受けとり、自らはどのように変化する資質を(現在)備えているかにより、われわれ(=欲望=感情)が決定する。感情は端的にいって「快-不快」のさまざまな混合の割合である。その割合を気にするのは「理性」ということになろうか。
各々の物が自己の存在に固執しようと勉める努力(コナトゥス)はその物の現実的本質に他ならない。(エチカ第三部定理七)
理性と感情とを対置することは不可能だ。なぜなら、「意志」は否定され「欲望=感情」と「選択」の二つしか人間には残されていないからだ。つまり理性とは、並置した感情の選択というメタ的なものでなくてはならない。様々な感情が並置され、その配分をギリギリの選択において決定する努力(コナトゥス)を理性と呼ぶ、と、今はしてみる。
その6-3 如来蔵?
しかし、理性は正解できるだろうか?
スピノザはできると考える。十分に自由であれば存在はその本質を様々に体現するのだから。これは、如来蔵に酷似した考えかたである。
ここに見出される本質が、「神」であったとするなら、それはほとんどそうだといえる。だが変状の定義からして、どうも「個物」はそれぞれに異なった本質を有しているのではないかと思われる。こうして、「一から個」へのベクトルは完成する。
その7 自己責任のための自由意志
能動(自由)と受動(強制)とは変状の方向(内向きか外向きか)ではなく、質(どの程度本質を表現しているか)による、というのがスピノザの主張である、と作者は解説する。そして、本質を表現するという自由と、自由意志とは全く関係が無い。
完全な意志を発揮できるのは「神」のみである。
自由とは、先に引用したカール・マルクスの言葉にある選択の際に「強制を受けないこと」に尽きている。
自由意志という考え方は、それをするかしないかにおいて、しないという自由がありながらするという選択を行ったことに対して責任をもつ、つまり「自己責任」に対応するためにのみ用意された言葉である。
さいごに
形がかわれば欲望も変わるだろう。
今後の課題
「中動態ー能動態」の関係をもって、たとえば「再帰文法」をもたないピダハン語を研究すること。
自己再帰は自己の疎外によって可能となる態度である。ならば自己そのものが、疎外によってのみ発見されるといえるのではないのか?
自己再帰的言説や態度(自分で自分を褒める。これは自分のためだ。など)を批判し、分裂⇒統合失調への言い換えが隠したものを明らかにすること。
以上。