はじめに
『増補現代俳句大系』 角川書店 の15巻から遡って俳句を拾い始めた。拾う基準は1.「我」という言葉がないこと
2.感情を表す言葉がないこと
3.「俳句のためにしたこと」を詠んでいないこと
4.なるべく平易な言葉で書かれていること
であり、つまりは「即物写生」であることなのだが、これがなかなか少ない。
この大系は若い巻数であるほど時代が遡るので、次第に「自我」に毒されない句「写生句」は増えてくるものと思われるが、虚子さんも、いや子規さんの頃からして「俳句の短歌化」は問題視されていたようなので予断はできない。
近代日本の批評Ⅲ 明治・大正篇 柄谷行人[編]
このpp328-330に、写生、写生文、俳句、短歌、などについての、子規さんに対する批評がある。
リアリズムという意味での「写生」は、西洋でもまた日本においてもありふれた概念だったが、それを「俳句」に見出したことが子規さんの独創であった。
俳句が世界でもっとも短い詩形である点において、「写生」とは「言葉」の問題なのだとし、それは端的にいって、「漢語」であり「名詞」について言われていると指摘する。そこには「固定化した文語に対する反逆」があったのだと、柄谷さんは論ずる。
「写生」とは言語の多様性の解放ということです。「写生文」の本質も実はそこにある。
だから、「平板な言葉による「写実」」を「写生文」と捕らえることは、島崎藤村さんの「スケッチ」となんら変わることがない。その意味では、虚子さんの「写生」は、こちらに属しているのだ、という。
絵画にとって抽象とは何か
子規さんが「写生」を絵画理論からもってきたことは間違いない。その意味で、私が拾っている俳句は、「デッサン」の風味を色濃く残した作品なのだと、最近は思っている。
画家が、習作として「デッサン」を描くように、俳人もまた句帖に「習作」を書くのだろう。それらを取捨選択再構成し、作品を作るのだとするならば、現代俳句のごてごてしたものや、極端に抽象的であったりするもの、象徴詩的意味ありげなもの、に帰着するのも分かる気がしてくるのだ。厚化粧か薄化粧か。ノーメーク風の厚塗りか。
絵画における抽象とは、具象を備えない「コト」を書くということの他に、具象を、色の関係性に分解し、その具象を離れてなお、その具象が鑑賞者にもたらす「感情のようなもの」を保持しうるのであれば、具象とは仮象であるにすぎず、その存在の象を抽出することで「本性」を示しうるのだ、という見方であると、私は思う。それでこそ具象と抽象との間に関連性が生まれ、イデア論や、色即是空の哲学を往還しうるのだと思う。四角だったり、水玉だったり、線、だったりという、ミニマリズムは、このラインで考えてみたい。
そして、俳句もまたミニマリズムではなかったろうか。もっとも具象的であらんとする写生俳句こそが、抽象画の範疇にあるミニマリズムでもあるという自己矛盾は、小により無限を表そうとする盆栽などにも通じるのである。まさに、その矛盾によって、それは可能となる。
いずれにせよ、私が拾っているのは
落ちてゐる椿の下の春の水 高木晴子
夜店の灯裏より洩れて軌道まで 北野民夫
のような句なのである。これら、見たままをただザッと書いただけに思える句に、私は惹かれるのであり、このように書きたい、いや見たい、と熱望しているのである。
これらの句が、習作であり、作品の域にないなどということはないと思う。私が求めているのは「即物」であることで、「作為」のないことなのだ。
これらの写生句(であることに異論はないと思う)から、言語の多様性を見出すことは難かしい。むしろ「平易(平板ではない)な言葉による叙事」であるといえる。だが、それは見えているものだけのことであり、問題はやはり「言葉」にあるのだった。
印象・日の出
音楽にとって具象とは何か
目に映るものを絵に描くとき、「見たままに」と指導することは比較的容易い。無論、視覚も訓練によって変化するので「見たまま」が万人が同じということはないし、描く技術にも大きく左右されることは置いておいてだ。
絵画を空間芸術と呼ぶとき、それに対して時間芸術とされる「音楽」を例にとる。
「聞いたままを音楽にしてごらん」という場合は考えやすいのだが、「見たままを音楽にしてごらん」という場合はどうなのだろうか。かつての「トムとジェリー」に用いられたオーケストラの用法。バラエティー番組でのうるさすぎるSE。
そんな「動き」と「音」との相関関係が、私たちには備わっている。重たい音。軽い音。怒っている音。笑っている音。は、ある程度共感を得ることができそうだ。
では、富士山を表す音とか、古池に蛙が飛び込む音、などを、音だけであらわす、つまり、その音を聞いた人が、そういった情景を思い浮かべることが可能な音楽は可能なのか、ということである。結論的には、音楽にはそういった効果は、おそらく求められていないのだろうと思う。だが、音楽が聴き手に与える自由の大きさは、絵画を凌駕していると思う。音楽の抽象性とは、具象から感情へという順序を逆転させ、「感情」から「具象へ」というまさに「夢」を導き出す経路に直結している。
音楽は感情に訴える。それは匂いも同じだ。それらは、視覚的要素を持たずに済むがゆえに、浸透する。これらはその分だけ、透明なのだ。
言語は往還する
視覚の豊穣さを翻訳し得る唯一の媒体は、言語の饒舌さである。言語はあらゆる叙事、叙情を翻訳しなければならない宿命を背負わされている。
つまり、言語とは、具象性を持たないがゆえに抽象をも名指すことができ、その名指したものを「具象」として扱うことを可能とする。
具象とは光をさえぎるものでもある。つまり、音楽や匂いは透明であるが、具象は不透明だ。言語は透明でありながら、何かを名指したとたんに不透明となるという、奇妙な性質を持つものだといえる。
以前に少し書いたことがある、言語以前の言語。それはつまり、透明な言語なのだろう。それは透明なままでは、言語としての用をなさない。
さいごに
写生俳句は、言語に再び透明性をもたらそうとする詩形なのだ、という仮説で、今回はしめてみたい。
それは、具象を抽象へ還元する運動である。
言語にとって抽象とは、涅槃のことであり、私の好きな俳句とはすべて般若心経の眷属なのである。