望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

エコラリアス 言語の忘却について ―読書メモ

はじめに

「エコラリアス」という魅惑的な響きを持つこの書籍を読もうとしたきっかけは、本の裏表紙に書かれていた言葉であった

「子どもは言葉を覚えるときに、それ以前の赤ちゃん語を忘れる。そのように言葉はいつも「消えてしまった言葉のエコー」である。そして忘れることは創造の源でもある。 言語の中にはつねにもうひとつの言語の影があり、失われた言語が響いている。言語の崩壊過程に言語の本質をみたヤコブソン、失語症を考察したフロイト、複数の言語を生きたカネッティ、死んだのに語る口を描いたポー、母語についてはじめて語ったダンテなどを導きに、忘却こそが言語が本来的にもつ運動性であることが浮上する」

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一読(七割読か。途中読み飛ばしも多かったので)した後では、この魅力的な文章が萎びてみえる。作者は仮説に固執しすぎ、それに束縛されすぎてしまった。その結果、この大胆な「仮説」を、狭義の「言語学」に押し込めてしまった。

仮説

幼児の発する喃語に、発音できない音は無い。だがこの万能性は、言語習得時に、きれいに消えてしまう。しかも、習得する言語に有用な発音までも、一切合財を白紙に戻してしまうのである。(『幼児言語、失語症および一般音法則』ヤコブソン(1941)』) これを読んで私は、「どもる体」でも言語習得以前の発音能力万能性については取り上げていたことを思い出した。

 成人の話す諸言語=喪失した喃語の谺

 谺する言語=エコラリアス。自らが消滅することで言語の出現を可能にする、言葉にならない記憶の彼方の痕跡。

 その残滓を、オノマトペと感嘆詞、間投詞に見出そうとする。除外されることにおいて、その言語に含まれる、特殊な言葉達。

これが本書のライトモチーフとだろうと思った。

「失われることによって全てをあらしめたものを、いかに取り戻し得るか?」

結論

「取り戻す」つもりは、作者にはなかったようだ。

忘れようとしても思い出せないことが、忘れえぬことであり、それが不断に影響を及ぼし続ける、との論旨展開には、ムリがあると思う。以上、ブログ本論終わり。

興味を引かれた部分と、読書メモ

読書メモ:幼少期の自在に囀る能力は、意味(分別)と結びつけられるときに全て破棄され、言語として再構築される。

ヘブライ語アレフと『どもる体』

アレフ、に関する考察を読み、再び、「どもる体」の内容がリンクした。

読書メモ:『エコラリアス』という本を読み始めている。 ヘブライ語のℵ(アレフ)が言葉をもたらすために失われた言葉であり、言葉を開く端緒なのだとすれば、「難発」はこのℵの肉視化であると感じる。

 しかし、作者は「吃音」を取り上げることはなかった。

 

アル=ジャーヒズ『動物の書」など

「鳥は完璧に歌う。人々は完璧には歌えない変わりに、下手に歌うことができる。人間の行動の原則はこのような減少の可能性にある」

言語障害に残る言葉は、忘却の一形態ではなく、鋭い記憶の形態を構成している。再組織、再書き込みができない失語症患者は、あまりにも完璧にただひとつの表現を覚えているので、他のあらゆる文章に代わり、唯一の表現を永遠に繰り返すことを定められている」

「彼らは話すことはできるが、彼らが話せないことを忘れることができない限り、彼らは話す能力がありながら、話すことができない」

「忘却」のもつ可能性

読書メモ:言語が抑圧する何かについて考るとき、 言語こそが何かに抑圧された結果ではないのかと思う。

読書メモ:感情は、意味(言語)よって相対化されるとき、その豊饒さが現れる。

読書メモ:言語によって言語を考えること。 脳によって脳を考えること。 システムを成り立たせるために不可視となっているモノを、可視化できる場とは、システムを包括するシステム内で、それは外部ではない。そのシステムを成り立たせ(以下同文) つまり、この想定こそが、誤りなのだ。

読書メモ:参考「先天性無舌症児の構音の観察」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp1960/34/2/34_2_149/_pdf

読書メモ:バベル以前の単一言語世界は人々の拡散を防ぎ、協同を目指した。神の怒りは、それを離散させた。その方法は、単一言語のあったことを完全に忘却させること。忘却したことすら忘却させることである。 現在の言語は全て、この単一言語の影である。

読書メモ:言語哲学はたいてい、日本語を他者としてではなく、異者としてしまうところで、興ざめする。

読書メモ:なぜ言語は常に、新規なものごとを指し示すことができるのか? 言語は、変化しない岩盤部と、変化を止めた胴体と、変化する触手から成る。イソギンチャクのように。 岩には多くのイソギンチャクがついている。胴体とは不活性化した触手である。触手は他のイソギンチャクと癒着する。岩は自在に囀る。この岩はクラインの壺のような形をしている。

読書メモ:『始めに言葉があった』の言葉が、「岩の囀り」だ。全てが言葉であり意味であり分節不可能であった。それこそがアレフであり、言語以前の言語であった

読書メモ:それは量子論的「無」、であり仏教的「空」である。

さいごに

読書メモ:言語に留まろうとする限り、言語と同時に失われた囀りに到達することはできないと思うし、忘れることで生まれたのなら、生まれたものを忘れれば、原初の忘れてしまったことがよみがえる、という考え方は単純すぎる。