望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

エクリチュールとパロールとローマ字日記

はじめに

Hareta Sora ni susamajii Oto wo tatete, hagesii Nishi-Kaze ga huki areta.

 から始まる石川啄木さんの『ローマ字日記』を借りてきた。
 ローマ字で書かれてあるのだから、ローマ字で読むべきであろうと、ローマ字で読んでいる。読み進めるうちに、しだいにローマ字を音として読めるようになってきて、だんだんと、それがローマ字であることが気にならなくなってくる。そうなると、わたしは読むのを控えて、ローマ字で読むことが面倒になるまで時間を置く。

 同音異義語だったり、固有名詞だったりが出てくると、目が滞り、記号として発音することはできるはずの、(つまり、読み方が分からないなどという事態ではない)音が、発音できず吃音の様相を呈する。これは、漢字かな混じり文を読んでいる場合には、あまり起こりえないことだ。漢字にどの読みを当てればよいのか分からず、停滞することはあるが、ローマ字を読むという作業は、意味を離れて発音することが可能なはずなのだ。しかし、脳は意味をとれない音の羅列を容易に認めない。

 音素は独立して存在するのではなく、その並び方によってある意味を示すために用いられる。各国とによって持ちいられる音素が異なることは、以前にも触れたし、発育過程における、発音の万能性からの母国語適応のための刈り込み、についても、たしか「エコラリアス」のあたりで取り上げた記憶がある。

 

mochizuki.hatenablog.jp

  ローマ字記述とは、日本語の「シニフィアン(音)」と「シニフィエ(意味)」とを明確に分離する。だから、

Hareta Sora と 晴れた空 とでは、それを「読む」体験がまるで異なっているように感じられるのである。

 今回は、日本語の書字、エクリチュールが、いかに「シニフィエ」に影響を及ぼすかを考えてみたい。

ギンロ

 apple RINGO りんご リンゴ 林檎。

 これらの書字を見たときに想起される事物はそれぞれに異なる。
 特に、ローマ字で書かれたもののばあい、それを「リンゴ」だと気づくのに他より時間がかかるのではないだろうか?
 つまり、RINGOはあまり、見慣れていないせいで一度発音してみなければそれが「リンゴ」と表記されていることに気づけないのである。これはとても重要な感覚だと思う。

 以前、パックンだったかが、日本語を勉強する際に、apple = ringo と書かれた本を用いていて、覚え間違えた例として ginro とあげていた。
 r と g の順番が分からなくなったのである。
 ギンロがリンゴの間違いだということは、ローマ字で説明されなければ、分からないだろう。リンゴをレンゴやチンゴではなく、ギンロと間違えるという指摘は、ひじょうに重要だと思った。

 日本語は「母音」と「子音」とを分けない。(発音上は、促音などによるリエゾン的用法はあるが、表記上で母音と子音を分けていない)。この特徴を、ドナルド・キーンさんは『日本の文学』内の「日本の詩」で、「押韻は意味をもたず、もっぱら音節を重重視する詩形となった」「結果的に日本語全体の音数は少なく、多くの同音異義が存在することにより、多重性をもつ文が生成できる」というような指摘がなされていた。

 リンゴがギンロにならず、レンゴ、インゴ、チンゴ、サンゴ、タンゴ、ハンゴ、ハンコなどの、類似する母音の並びをもつ単語を呼び出し、また林檎のリンが、隣、林、臨、鈴、輪、など多くの同音異字を想起させたり(ゴも同様)する。日本語は、パロールエクリチュールとが分かちがたい国語だと思うのである。

 アルファベットを用いるネイティブが、appleから、どのような別の事物を、一般的に、ごく自然に想起するのかを調査した資料と比較しなければ、日本語の特性などとは断定できないとは思うが、少なくとも日本語表記が「漢字かな混じり」をもつという事実は、アルファベットのみ(単一文字群)の言語とは大きく異なるものと考えている。

エクリチュールの問題

 前節の最後に私は、「漢字かな混じり日本語表記」こそが日本語のパロールを日本のエクリチュール化していると書いた。となれば、日本語の特異性とはパロールにあるわけではなく、やはりエクリチュール上に存在するものとみなければならず、それを再確認するために、ローマ字日記をローマ字で、純粋な日本語のパロールとして読むという作業を続けなければならないだろう。

 書かれた時点でそれはエクリチュールである。たとえローマ字であろうとも、それはやはり日本語のエクリチュールなのだから、純然たるパロール体験を求めるのならば、やはり書字を介さぬ「音声」を聞くべきではないのか? とも考えた。たとえば、自動読み上げによるエクリチュールパロール化。(いや、そもそも音読すればそれはパロールなのか、という厳密性はここでは求めない。エクリチュールは書字。パロールは音という程度の用法である)

言語セットという業

 だが、われわれは日本人なので、日本語を聞くだけで、その処理過程で自動的に「漢字かな混じり文字」を「見て」しまっているという感覚がぬぐえないのである。冒頭に書いた、「意味の分からない音素の連なりでつっかかる漢字」というのは、言語が「意味」をもつ「セット」と、入力される言葉とを逐一照会しながら理解しているということになる。その「セット」とは、ふつうは「シニフィエ」になるはずなのだが、「ringo」と聞いて、「りんご」「リンゴ」「林檎」という「文字」と紐付けるところで処理を終了してしまっているのではないかと感じてしまうのである。

 「ringo」と聞いて、一般的な「リンゴ」を想起する。それは、具体的にいつかどこかで見た林檎の場合も、これまでの林檎体験を総括した記号としての林檎である場合もあるだろう。わたしが恐れているのは、「記号としての林檎」で処理が止まってしまうことであり、「記号としての林檎」が書字としての「リンゴ」のレベルで「良し」とされてしまうかもしれないところなのである。

 意味がとれずにつっかかるのと逆に、意味がとれてスイスイと読める場合のことを思い出すとき、わたしは理解できる文字をただ文字として、たんに「シニフィアン」としての書字を想起しているだけではないか?

 日本語を聞く、という体験に、わたしはすっかり慣れ親しんでいるから、あえて、「個人的シニフィエ」にまで到達できないのではないのか、と思うのである。つまり、わたしは「悟り」のことを、考えているのである。

ローマ字という目障り

 だからあえて、ローマ字という完全なる音の記号を読むという不慣れな体験をすることによって Hareta Sora を、「晴れた空」というエクリチュールではない、個的実体験による「晴れた空」を想起できる経路を開きたいと考えているのだった。ローマ字は、そのための要請ギブスになるのではないかと。日本語を純粋にパロールとして表記可能なのは、ローマ字によるエクリチュールしかないのではないか。あえて、母語を片言にする操作によって、慣れ親しんだ経路を離れて、手間のかかる「個的シニフィエ」にいたる経路を活性化できるのではないかと目論んでいるのだった。

おわりに

 となれば、この問題は「翻訳可能性」と深く関連する。ネイティブであれば一つの単語の背景に膨大な経験をもっているはずで、それらは人それぞれ異なっている。言語セットとはその最大公約数のうちで運用されている。そのバラつきを修正するのが「教育」であり「文化」なのだろう。個人的体験をある言語で表すときは、自らがどれほど「言語セット」に統制抑圧されているかに自覚的であらねばならないと思う。

 そして、文学とはこの「言語セット」との闘争なのだと思う。