望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

エクリチュール補完計画 ―身体を超えて身体イメージにしがみつく性

はじめに

タイトルに深い中身などない。これはイメージだ。

 マスクせる顔面を恋愛対象とするとき、互いに感染リスクを負いながらマスクをはずして濃厚接触者たらんとする覚悟をもてるか否かの判断を迫られる時代にシフトした。 無マスクで唾液を撒き散らす行為が傷害等の罪を構成するか否かは弁護士にまかせるとして、身体接触をもって種を存続させる生物である人類にとって、コロナ禍は、コミュニケーションに関する意識の転換をもたらした。

 一方、世の中には多種多様なSNSの手段が実用化され運用され活用されているのである。

 にもかかわらず、感染リスクが高まった社会のうえで、より「対面」であることが求められているのが、ひじょうに滑稽におもわれてならなかった。

 今回のブログはその違和感に始まる。

SNSは情報交換ツールであること

 情報という言葉には「冷たさ」がつきまとう。情報とはそれ自体は無味乾燥で温度を持たず静止した点である。情報はある意図の下に組織され、意味を見出され(もしくは付与され)た上で始めて「熱量」をもつ。そしてこの熱量とは「感情(欲望)」そのものである。

 SNSの大半は情報を「言葉」によって伝達する形式をもつ。そこにパロールは無い。遠隔地への情報伝達のすべてはエクリチュールによってなされてきたし、今後もそれは変わらない。

 パソコン通信のころから、こうしたエクリチュールのみでのコミュニケーションの困難に、ユーザーは直面してきた。ネチケットという言葉は死後となったが、現代においてもなお、「独特な配慮」が必要なのことに変わりは無い。むしろ、SNSが一般化、多様化した現代にあってはなおのこと、エクリチュールのもつテキスト性が、送信者の意図せざる形に組織され、爆発的な熱量を発生させる事態が頻発している。

インターネットによって世界が広くなる、という神話が虚像であったことを、もはや誰も疑わない。誰もが意見を発信できる場においては、意見を同じくするものたちの排他的コミュニティーが無数に生じ、いわゆる世界の「村」化が進む。そこではむしろ、「大同小異」の「小異」こそが排斥の原因となり、「大同」までもが否定される。価値観の多様性を受け入れるゆとりは皆無だ。この過剰反応はやはり恐怖心から生じているのだろう。SNSは、異端者を炙り出すツールとして最適なのである。

 多数決は民主的だが多数派が常に正しいわけでもなく、ましてや理想的正義とは一般論として論じられるものでもない。魔女狩りもまた民主的なプロセスであったことを思えば、それは明らかなことだ。

 わたしたちはこれほど「言葉」に頼っていながら「相手の言葉」を「相手の意図の通りに理解する」能力が脆弱すぎるのではないか?

 それは感情→言葉→感情のプロセスに多大なる欠陥があるためなのではないか?

エス=キリスト

 知らない人の「言葉」がそれを読んだ人の「感情」を動かす。そのとき「知らない人」は「知らない人」ではなくなっており、「そういう言葉で意見や感情を述べる人」として認知されている。

 はじめに言葉があった。「光あれ」のように。それ以降、その光に照らされた姿形とは、実は「言葉」によって組織された「情報」がもたらしたイメージなのだった。「光」そのものが「言葉」だったなら、われわれとはその「偽りの光」によって存在しえた「言葉」である。ただし、「光」というシニフィアンが、言葉以前のシニフィエを指しており、それが「光あれ」という言葉を発する動機を構成する器官であったとするならば、「光」とは「言語以前の感情」であったかもしれない。

「光」を「光」と呼んだとき、「光」は「光」から決定的に隔たってしまった。にもかかわらず、創造主は「光」をよりどころとするしかなかったのである。なぜなら神は「創造したいという欲望」を抱いてしまったから。

 言葉が抱える「感情」と「情報」のズレこそが「原罪」なのである。

 父である「ロゴス」と母である「マリア(という感情情報)」との間に交わされた「精霊」こそが、神の第二のスペルマでありそれこそが「感情(欲望)」なのであった。

 イエスはロゴスと情報の間でコミュニケートされた感情によって生誕し、感情にもロゴスにも裏切られて死ぬ。そして「感情」を廃した「ロゴス」として復活を遂げ、地上を去る。だから「神への愛」や「自愛即他愛」とは「感情」の問題ではない「愛」なのである。「愛」は感情ではない。それは、仏教の「慈悲」と同じ「愛」である。

純愛のダイバシティー

 またしても、思いもよらないところに行き着いて、このブログは放り出される。

 今回の私のメモは、

思考とは言語によってなされそれをSNSが仲介して行われるコミュニケーションにおいては、身体接触の先触れや、打診としての意味合いはむしろ減衰する。それは、遠隔という距離を擬似的に無化する代償として身体が消された世界へのシフトを意味しており、その上で言葉が感情とがまったく齟齬のない関係性においてやりとりされるのであれば、肉体無き世界の愛はすべて純愛となる。

 この純愛とは、かつて村上龍さんが「超伝導ナイトクラブ」で示したあの「純愛」にほかならず、ここに「愛のダイバシティー」が実現するはずなのであるが、当然にして、身体なきコミュニケート時空とは、じつは時間のみが存在する世界であるがゆえに、肉体的な子孫を生み出す機構はそなわっておらず、このように人類は「純愛のダイバシティー=慈悲=フェチティズム」を体現させて、輪廻を脱して地球人類は滅亡するるはずなのであったが、言語の不完全さゆえに、肉体は生き長らえて、濃厚接触のリスクは、ストーカー、レイプ、殺人などの破壊衝動と常に表裏一体となって、いびつに存続し続けるであろう。

  というものであったが、それはもういい。

おわりに

なぜならばわたしは、わたしのブログを、わたしのドキュメンタリーと位置づけているからである。