望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

成果品のエシカルな享受とは?

はじめに

「遠くに落ちる原爆の光を、そうとは知らずに見て「きれい」と思い、あんなに「きれい」な光は見たことがないと思う。あとで、あれが「原爆」の光で、あの光の下に大勢の人が亡くなったり、ひどい怪我をしたり、ずっと長い間苦しみを抱えなければならなくなったのだと知ったとき、あのときの「きれい」という思いは、「きれい」と思ってしまった心は、一体どうすればいいのだろう。あれは「きれい」なんかではない。「きれい」だなんて言ってはいけない。ということは分かる。「きれい」と思ってしまったことに、大きな罪悪感を感じているし、もう二度と「きれい」だったなどとは思わない。けど、だけど、あの時「きれい」と思ってしまった思いを、この「心」を、私は、どうすればいいのでしょう。どう償えばいいのでしょう」

(「野田秀樹さんだったか、つかこうへいさんだったか、青春舞台だったか、忘れてしまったけれど、ともかく演劇を見ていて記憶にのこっている台詞からでっちあげてしまった科白」)

 

スキャンダル

 芸能人のさまざまなスキャンダルが取り沙汰され、謝罪や、活動休止、脱退、除名などの処分と、それが重いだの軽いだのと巷間は賑わっている。

 ところで、芸能界はクスリ関連に甘い。それは、「表現者」が「クスリ」に頼ることを、なんとなく「是・必要悪」とする雰囲気が残っているからだろうか?

 芸術のためには、常軌を逸した何かがなければならない。奇行を繰り返したり、精神を病んだりすることによって、彼らが生み出した芸術作品を、我々は「すばらしい」と評価し、それに対価を支払ったりする。

 だが、そういう姿勢は、「エシカル」なのか? そんな疑念がよぎってしまった…

作品と商品

 クスリの力で、すごい作品を作ることは、スポーツにおけるドーピングと同じとは考えられないだろうか。スポーツの場合、記録は抹消され、当人にはペナルティーが課される。だが、広い範囲での「芸術」に関しては、当人は法律に則って処分されても、「作品」に関しては、抹消される例はあまり聞かない。

 それどころか、「精神不安定の中生み出された稀有な傑作」などと賞賛される場合すらあるのだ。明らかな法律違反を原因として生じた商品に対価を支払うことは、エシカルではないはずだ。

① 芸術作品は「商品」ではないのか。

② エシカルな態度とは「商品」に対してのみ貫けばよいのか?

トレーサビリティー

 以前に書いた「フェアトレード」に関連する記事において、「フェアトレード」を実現するためにもっとも重要かつ、もっとも困難なものが「トレーサビリティー」だった。

 ある芸術作品(再度記しておくと、今回、この「芸術作品」とは広義な表現活動を指し、絵画、彫刻、文学、音楽、娯楽などの多くのジャンルの作品をさす)について、その作者の「性癖・嗜好・過去の言動」などを徹底的に調査し、それによる作者の過去の言動に「エシカル」でない部分が見受けられた場合、その成果品がいかに優れたものであろうとも、流通させるべきではない。という態度を実現する上でも、重要な問題となるのは同じだ。

 ある作者が、DVで訴えられたとする。そのDVを起こす傾向は、彼が作品を生み出す上で、欠くことのできない情動を構成してはいなかったか?

 小児愛好、覗き、窃盗、暴力、詐欺。そういった心理的傾向をもった「DNA、生い立ち、教育、本人の脳の形質」が、作者特有の作品を生み出すアイデンティティーになっているのではないか?

 差別的思考、セクハラ、モラハラ、などを当然と思っている心理的傾向が、絵画の、作詞の、指の動きの、文学的思考の、ひとつひとつに、影響を及ぼしているのではないのか?

 こういった、傾向によって生み出された成果品に、対価を払うことは、作者を認め許すことであり、それは同時に、作者が虐げてきた者達を、ないがしろに扱うことではないのか?

プライバシー?

 トレーサビリティーを確保するためには、成果品の供給者は、親子三代に渡るプライバシー情報を、開示しなければならない… そういうことになるのかもしれない。

 コンプライアンスを重視する企業がCMに起用するタレントについての調査は、これに似たような状況になっているものと思われる。

 また、そうなると、ワイドショーや週刊誌の芸能部の仕事は、「エシカル」な消費を助ける重要なものとして、再認識されることになるのである。(もちろん、それら芸能部の態度がフェアかどうかについては、徹底的に調査されることにもなるのだが)

イメージとエシカル

たとえば、

「好きな俳優だったけど、あんなことする人だったなんて幻滅…」

という声はありふれている。

 だが、俳優がすばらしい演技をする才能と、たとえばDVを起こす性癖との間に因果関係が認められなかった場合、その俳優はDVの罰は受けるべきではあるが、それによって表現活動を自粛する必要はないと、考える。

 才能と性癖が別々であるのなら、その咎を才能に負わせることは、芸術上の、人類にとっての、喪失となるからだ。イメージとして作者全体を葬ってしまうことは、避けるべきだと思う。

さいごに

 私は「作品主義」の立場にいた。

 たとえ、作者がどんな奴でも、作品がすばらしければその作品を評価したいと考え、作者の言動によって作品の評価が増減するとは考えてこなかった。

 だが、「フェアトレード」「エシカル」が、「弱者を生み出すシステムを改善する運動」であるのなら、「芸のためなら女房も泣かす」といったシステムを、放置すべきではないのだとも思う。

 いまは、SNSや、マスコミによる、追求、制裁が、広範にわたってカバーしているが、その基準は必ずしも、一律ではないように思う。

エシカル」であるためのトレーサビリティーの確保は、あらゆる分野において、必要かつ困難だ。

 今回は、自分のなかでの問題意識の提起で終了してしまうが、継続的に、考えていかねばならないことだと思っている。