望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

Associationism+LETS ――貨幣は全てを手段にするから

はじめに

 ときおり、「アソシエーショニズム」について考えているわけですが、やはり理論的にいって、もっとも原理的で先鋭的であるのは柄谷行人さんの「消費協同組合」を軸とした「交換形式による歴史考察から導かれる貨幣揚棄の未来」像なのです。 

 『批評空間 1999Ⅱ-23』冒頭の座談会では「貨幣主体と国家主権者を超えて」というタイトルで議論を深めています。柄谷氏の実践の検証は今後の課題にするとして、

『本当に「理論的」であるということは対象自体を変えることができる、そのようなものでなければなりません』
という考えに異論は出ないと思います。ただの「分析」にとどまっているものが「理論的」であるかのように振舞っているのは、たしかに滑稽ですし痛々しさすら伴うものです。

 私は柄谷さんの本を読んで、「組合組織」というものが「資本主義への防衛組織」ではなく「資本主義を内側から食い破る攻撃組織」であり、かつ「人を含めたあらゆる資源を消耗することしかできない資本主意」に対抗し得る唯一の経済=社会制度であり、唯一倫理的であることが可能な組織だと思いました。

 そして、生産者=消費者という同一人の個人の多様な場への参画により「資本」を次第に無効化していく運動にこそ、実現性があるのではないかと。

 今回のブログは、政治経済にまったく素養のない者が、『トランスクリティーク カントとマルクス』(柄谷行人・批評空間 2001年10月15日 第二刷)を読んだ記憶の、体感的なとりとめのないお話です。

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Transcritique

消費が世界(=世界資本主義)を変える

 消費者協同組合 →資本に対抗しうるのは、消費者の立場(柄谷行人

 労働者の立場では、資本に対抗できない。歯向かえば解雇され、他の働きたい人に職を渡すのみの愚挙です。収入の道を絶たれることを思えば、労働運動は労働条件の改善運動であるほかなく、賃金を「費用」、人間を「消耗品」ととらえる「資本」に対抗する足場とはなりえない。われわれは「賃金=命=貨幣」という人質をとられている。との指摘は労働者の実情であると思います。

 労働という形態は全てボランティアを基本とし、憲法25条的生活は、ベーシックインカムで保障するという形がベストだと思いますが、そういう社会保障体制は、現状の貨幣経済下では、持続不可能でしょう。

  社会民主主義福祉国家主義)への警鐘(持続可能ではない)

 コストカットの第一候補がリストラです。不足する労働者は移民やロボットに置き換えられます。資本は労働力の国籍を問いません。資本は資本の拡大のみを目的とし、国家が資本を保護している限りにおいてはそれを尊重するでしょうが、許認可制度や税制が不利と判断されればたやすく国家を捨てられます。企業とは本来的に無国籍的であり、非人間的です。

 また、国民を庇護してくれるかのようにふるまう国家は、資本からの税収入なくして立ち行きません。というより、国家が求めているのはただ、税収のみです。従って、利益を産む大企業は優遇され、コストである国民(居住民)は冷遇されます。国家の責任において保護する施策の財源は税金であり、その大部分を負担するのは企業と資本家です。

 早晩、社会保障制度は破綻し、セーフティーネットNPOや、ボランティアに依存するようになるでしょう。そこへ企業が出資するかもしれません。これによって、国家=社会民主主義福祉国家主義)は事実上破綻します。警察力、自衛隊等の暴力装置の独占によってのみ、国家は対外的にその体裁を保つことになるのでしょう。

 そして企業が国家的福利厚生費を肩代わりするのは、単に販売促進戦略にすぎません。もともと国民を保護する義務など負っていないのですから、コストカットの第二候補となるでしょう。ここでも切り捨てられるのは労働者です。

 徴税と分配と投資と消尽

 格差がなければ資本主義はドライブしません。労働者を生かさず殺さずのラインで持続的に供給するため、賃金と税金とは資本家のコストと位置づけられます。

 ※消費税のような逆進性をもつ制度は、資本家の負担すべきコストを軽減させ、「消費活動から疎外される労働者(ワーキングプア)」を生む。だが格差とは、数の問題なのではなく量の問題なので、大多数の貧者を疎外しても、販売活動は維持可能であり、売れるのであれば生産活動も継続可能である。

 ※財産の半分を投げ打つ場合、残りの半分が30万円の人と、3億の人とではどちらが尊いのか? また、30万円を人のために用いる場合、資産50万円の人と資産3億の人とでは、どちらが尊いのか? という論点が時折、とくに宗教的な話において、もちだされる。社会的にみて、前者においては3億のほうが有用であり、後者においてはいづれも等価である。とれるところから、取るのが徴税の基本であり、累進課税は、その「比率配分的公平性」から社会福祉国家存続の根幹的制度であったが、それを徹底すれば資本家と会社とは国を出るだろう。政治と経済との軋轢は常にこの一点にあり、この一点以外には存在しない。端的にいえば、それは、所得税法の問題である。

 資本主義経済における最大の特徴と問題点は、「資本家」と「労働者」の分離構造にあるわけですが、それを可能としたのは「貧富格差」であり「利子の存在」だったわけです。「利子」については、イスラム教とキリスト教との間の取り組みの違い、言ってみれば「腰の引け具合」に面白みがありますが、それはさておき、株式会社こそが、その制度を最大限に活用できる形態でした。

 「世界自由資本主義=株式会社」が、経済社会史における現在であり、もっとも進んだ形だといえるでしょう。ただし、その形は新しいものではありません。労働は奴隷の仕事であり、思索が人間の仕事であったギリシア時代の考え方を踏襲したものです。ギリシア時代は労働力は論点となりえませんでしたが、現代は労働力が多少論点となりうる、という違いがある程度です。

※この「多少の論点」というのがいわゆる「人権問題」という看過できない重大なものであることは言うまでもありませんが、経済的には「コスト」の問題に過ぎません

 繰り返しますが、資本は、必要な格差と労働力とを、どこからどのような形で得てもかまわないのです。そして、その是非を審判可能なのは「組織的な消費者としての立場」のみです。

 資本家は、自らの資本を増加させ得ると考えるプログラムに投資します。それは、自らの資本を有効にドライブさせうる有形無形を問わないあらゆる物件です。あくまでも求められているのは「資本=貨幣」です。それが、あらゆるものを消尽させていると理解するために、対置すべきは狭義の「クラウドファンディング」だと思います。

 製品やサービスそのものに興味があり、それが世の中の(自分の)役に立つと考えた人が、出資を行う。見返りはその製品を手にすることであったり、映画などの場合には自らの名前が記されるとか、記念品がもらえるといった「貨幣」以外のものです。

 ここに「消尽」は存在しません。これらはある意味、受注生産品であり、作り手は自らのプロダクトを愛しており、出資者もその物を愛しているからです。けっして、貨幣を売る手段。などではないのです。

他人を手段としてのみ用いてはならない

「他人を手段としてのみ用いてはならない」というカントの言葉を柄谷氏は繰り返します。「資本」は「株式会社」を「資本を増やす」手段としてのみ用います。「会社」は「労働者」を生産の手段としてのみ用います。人と人、物と人との間に「貨幣」を介在させるとき、人も物も全ては「貨幣を増やすための」手段と化してしまいます。それにより全ては「消尽」していくのです。資本主義制度は「消尽」によって成り立ちます。最終決算、を未来に繰り延べることで永らえるドライブは、結局「資源枯渇」によって終了するのです。それは、搾取する対象の消尽であり、「交換価値としての貨幣」の消尽にほかなりません。

 そこからは、近未来映画として手垢のつくほど再生産された、「水」「食料」「暴力」による格差社会です。このとき、地球は消尽しているため、新たなドライブは望むべくもありません。狩猟と採集。農耕。工業化。といった歴史を繰り返す土壌を失った地球。それまでに地球を脱出する方法が見つかったとしても、資本主義では同じことの繰り返しです。それは無限軌道のようで、実は搾取可能な場を求めて移動しているに過ぎません。そして存在は有限です。資本主義は無根拠に「加算無限」を信奉しなければ成立しないシステムでした。加算無限は有限なのだ、という点を無視しているのです

「有限なる無限」の倫理

 そこでわれわれは「有限なる無限」を倫理的に組み込んだ次の経済社会制度へ移行しなければならないと思います。「有限」なのは「時間」「空間」「資源」です。そして無限なのは「次世代への責任」です。

 これを実現する制度と、資本主義を停止させる制度とが一致しているのかは不明ですが、次の一手として有効なのは、間違いなくアソシエーショニズムです。ですが、現状のままでは、組合は資本主義にまともには対抗できません。

組合

なぜ「組合」なのか?

 それは、組合組織が「相互扶助」を第一と考える「人的結合対」だからです。この場合の「相互」とは「人と人」のみならず、広くこの世界における「持続的共棲」を実現することに他なりません。ここに「消尽」はありません。そして原理的には「貨幣」も不要なのです。

現状認識

 現状では、組合組織は大資本に対抗するため、というよりも大資本の巨大な物流に飲み込まれないため、筏を組もう。という程度のものでしかありません。そして可能であれば、メジャーな潮流の届かない海域に、パラダイスを建設できれば、というのが望みです。大資本とがっぷり四つに組める巨大組織を、組合はもともと想定しません。それは、資本主義のドライブに貢献することに他ならず、積極的に「消尽」しあうことになるからです。

 現状では、組合組織を形成する組合の一つ一つの会社や個人の目的は「生活を続けること=貨幣を得ること」です。その小さな「目的」を達成するために自らや自らの会社を手段とし、その手段を少しでも実効あるものにする補助として組合を手段としている状態です。

外ー中ー内

 外部に対しては「資本主義」であり、組合の中では「相互扶助」であり、組合員の会社内部は「資本主義」である。現在の構図はこのようになっています。ここから「資本主義」を可能な限り駆逐し、かつ「資本主義に働きかけ」る立場を実現しつつ、最終的には「資本主義に取って代わる」攻殻的組合組織に変わるために、何が必要なのか?

 それは

第一には「生産ー消費」組合の組織化。

第二には「通貨ならぬ通貨の流通の組み込み」です。

「生産ー消費」組合に組織化

現在、生協は膨大な組合員数を誇ります。農業協同組合も、信用(金庫)組合も全国的組織です。全国漁業協同連合会、全国森林組合連合会など、産業において、全国規模の組合、組合連合会は存在しています。

 運動に重要なのはまず「消費者」でした。生協の組合員は、以下に述べるようにエシカル消費を推奨することができ、その基準を外れる企業をボイコットすることができます。「安価であること」よりも「エシカル」であることを優先する消費行動を推奨しうるか否か。

 そこへ「エシカル」な生産品を提供するのが「各組合」であること。それが「組合の組織化」です。さらに、組合が十分に機能していない生産分野に関しては、「大企業よりもエシカルである組合のプロダクツを優先する」という方法で、生産組合を優遇し、かつ、組合組織に従事する人々には消費活動上の優遇措置を与えることで、人員を組合へ確保すること。

企業組合から全生産消費組合連合会

 さらに、生産組合においては「賃労働」を廃し、「企業組合」方式による「配当」によって対価を配分すること。つまり、「資本」と「労働」との統一化が不可欠です。さらに、それら全ての組合、組合連合会が、一つの「全生産組合連合会」となり、その内部において各産業はユニット化され、人々はさまざまな勤労に従事できる体制を確立できれば、すばらしいと思います。

 巨大な生協があり、その組合員が全て「生産企業組合」の出資者=作業従事者であるような全生産消費者組合連合会の社会。その作業は、賃労働ではないとう点でも、エシカルな活動であるという点でも、(後述するように)固定的でないとう点でも、ボランティアに近づくものと考えます。賃金のためでない、自ら求めて行う、人的つながりのなかの作業。

 そのような組合が理想です。しかし、そのために揚棄しなければならないのが、「貨幣」です。そこで「貨幣ならぬ貨幣=LET」が重要となるのです。

 地域通貨(LETS)

地域通貨(LETS)は組織する

 ここで考えるLETは、実態をもたない「記帳される数字」のみのものです。それは共同体内部で流通する行為を「見える化」したもので、何かを受ければ赤字で支出を、何かを与えれば黒字で収入を記載し、その収支をなるべく0にするように共同体でコミュニケートすることが推奨されます。

 インターネットのよって、理念を同じくする共同体は距離的制約を受けずに組織可能です。行為のやり取りを記載するLETにおいては、オフで会えないという点は多少制約となるかもしれませんが、不可能というわけではありません。

 また人間は単一の理念のみを保持するわけではありませんから、さまざまな分野におけるLETへの参加が一般的となるはずです。ローカル地域においては、生活上必要なさまざまな作業のやりとりに、LETが記載されるはずです。

 その意味で、「どこにも属したくない人」はそうした共同体を息苦しく感じるかもしれません。ですが、人間は一人では生きられない。貨幣によって全てを消尽させる社会を良しとする価値観は、残ることと思います。

行為(≠労働)の対価としての貨幣でない貨幣

 LETは、家事労働を数値化する。ボランティアを数値化する。恩送りを数値化する。共同体と自分との間の寄与と庇護関係を明確化する。それはその共同体における自らの信用として、人格として機能するようになるでしょう。そこではあらゆるものが「有償」であり、純粋な「好意」は存在しません。そう考えると、殺伐とした感じがありますが、「ただより高いものはない」という心情的圧迫は軽減されるのかもしれません。そして、受けたものを、受けた相手に直接返さねばならないという、くびきを逃れている点も需要です。自らができることを、それを必要とする相手に行うことが、可能だからです。

 そして、LET最大の特徴は、黒字がなくとも赤字スタートが可能であると点です。仮に、生活必需品全般がLETでやりとりできるのであれば、生活のために貨幣を用いる必要はなくなります。この、「仮に」を取り払うため、LETを組合への導入することが不可欠なのだと考えます。

草の根連合

 市民レベルでの、局所的な活動として「組合」があり「LET」があります。それらのセルが小さいと、「外」に晒される部分が多くなります。

 資本主義とは、全員が一斉に「やめた!」といえば、なくせるものです。しかし、「やめた」という人が少数では、その境界で必ず「RMT」が必要となります。潤沢な資産を持つ篤志家が「貨幣」を使って必要な物品やサービスを、自らの共同体内部で流通させる。これは篤志家が破産すれば終了します。こうした持続不可能な運動は、キックスターターとしては必要かもしれませんが、単に「失敗」の見本として、資本主義しかないのだという意識をさらに強固にするでしょう。共産も組合もだめだね。と実際、柄谷さんの試みも失敗しました。

「やはり理想に過ぎない」という声は多かったでしょう。しかしもともとこれは「理想」なのです。後に、柄谷さんは、来るべき交換様式Xである、アソシエーショニズムには、宗教的な何かが不可欠ではないかと考察していたと思います。それは、「カリスマ性を持った者が主導する、理念を同じくするものたちのフレキシブルな共同体の連合体」なのかもしれません。そのための精神とは、エシカルな倫理観を基底とした、ダイバーシティーを認める個の、自在なユニット」なのではないかと、今は漠然と考えています。

Associationism+LETS

生命を大事にすること。地球を大事にすること。

現代社会はこの二つをないがしろにするシステムで突き進んでいます。それが不自然であることは明確なのですが、「やめた」と言ったものからワリを食う仕組みになっていることから、誰も降りることができずにいます。

そういうシステムをとめる「理論」は提示されており、その「種」は地球上の各所に撒かれています。

それらを結びつける旗印が、Associationism+LET ではないかと、私は思っています。

付録 使用しなかった項目メモ

結局は「レッド」の大きい者を村八分、または強制贈与体系となるのでは?
- 貨幣に対するカウンターとして
- 貨幣制度からの離脱は、資本主義という閉塞へ向かう運動からの離脱である
- 現行通貨は有効なLETをRMTによって取り込もうとする(偽最終審級としての貨幣)
- LETSは生産=消費組合の循環の内部において有効となる
- LETSによる組織は、チーム召集制となる?
- 大規模な研究や、組織内への労働の場合の収支の公平性の確保?
-有限な資源の配分? 配給制度や出産制限、間引きの統括
- エシカル消費(持続可能性とは、消尽させない社会である)
-過度な医療行為の廃止?
"「倫理的消費」人や環境、社会、次世代に配慮した買い物のこと
- フェア・トレード
"NAMにおいて、バナナの取り組みあり"
- 売れた値段からしか収入を得られない→LETの導入
"商品販売価格先導型の弊害。(98円大根問題)
労働時間説は、対価計算上、ある意味で保持されるべき。
- 無農薬・無添加有機農業
- 地産地消・地元産業発展
- 製作・販売を通じて障害ある人も社会とつながる
- エコ(環境)
"NAMにおいて、ガソリン代替燃料(サトウキビ?)あり 他人とは、全ての生物(未来の生物も)を含む。(柄谷行人
- 動物愛護