はじめに
資本主義社会に暮らす息苦しさは、全てを貨幣価値で測ることができる点と、賃労働の義務を課せられている点の二つにある。
その根源的には、この宇宙という閉鎖環境における資本主義経済とは、緩やかな自殺以外のなにものでもないという点に起因する。
従って、資本主義にたいする批評はなるべく読んでおいて、来るべき世界の姿を、汲み取れるところは汲み取っておきたいと考えている。
私がこの日本で、資本主義社会の恩恵をうけながら、同時にこの社会を抜け出したいと考える個人的要因は、私自身がスキルをもたないせいである。つまり、私が持っているカードでは、この社会(に生きる人々)から貨幣を得ることができないためだ。(それはつまり、私自身には、この社会にとって何の価値もない。と宣告されているのと同様である)(托鉢僧へのあこがれは常にある)(死ぬまで生きるだけ)
負債論
『負債論 貨幣と暴力の5000年』 2016/11/22
デヴィッド・グレーバー (著), 酒井 隆史 (翻訳), 高祖 岩三郎 (翻訳), 佐々木 夏子 (翻訳)
本書では、「資本主義」、とりわけ「貨幣経済」がもたらした害悪について「負債」という観点から歴史的かつ全面的に検証している。
資本主義の揚棄
私は、資本主義を揚棄しようという思想が「好き」で、その思想的かつ理論的骨格は柄谷行人さんに負っている。
国家ー資本ー民族 のトライアングルが、それぞれの項を相互補完しあい、さらにその相互補完のための血流として資本主義が働いているのだという指摘は、納得がいく。
互酬性的社会
来るべき社会は、何らかの形で互酬性を原理としたものになるであろうとの指摘は、中沢新一さんの著作においても共通している。貨幣が、自然と人間、そして人間同士の間に疎外をもたらし、次の社会では、その関係を回復しようとするだろう、という理解である。この理解は、『負債論』においても跡付けられている。
負債とは
水臭い
まだ、読んでいる途中ではあるが、本書の指摘で重要だと感じたのは、「物々交換」は「貨幣の使用以後」に広まった形式であるとの指摘だ。
古代、仲間内で必要なものを融通するのに「交換」という概念はなかった。また、ギブアンドテイクや、互酬性という考え方もなかった。
そこでは「貸し借りなんて水臭いこというな(もちろんこれは貸し借りの関係が広まった以後の言い回しだ。ここでは心情としてこういう捉え方があったのだという例として挙げた)」という関係性が築かれていたいたのである。こういうコミュニティーでは、個人所有という概念は希薄であり、全ては共有財産ととらえるのが当たり前だったはずだというのだ。(これは、ある意味で「共産主義」と呼べる)
外部との関係性
「交換」は「外部」との非継続的な取引において発生した。ただし、通常の物品の交換において「貨幣」が用いられることはなかった。(以下「古代貨幣」)
「古代貨幣」は、結婚や、争いごとという、非対称的な物事を調停するため、象徴的に取り決めらたもので「手打ち」の象徴としてやりとりされるものであった。いかなるものとも等価交換可能であったわけではなかったし、なによりも他部族間での為替相場を保証する後ろ盾もなかったのである。
貨幣の等価性の確立
結婚や殺人などの代償としてやりとりしていた「古代通貨」が、国家的組織を背景とするようになると、どちらかというと「モラル」に属していた象徴性が、「力」に属するものへと変化していった。
なんといっても、「貨幣」は持ち運びしやすく、交換レートの保証さえあれば、何とでも交換できるという、利便性に優れていたのである。国家が巨大化し帝国となっていくにしたがって「貨幣」は物品売買の仲介物として普及していった。(とりわけ国家の拡大と維持のため整備された職業軍人や傭兵への支払いについては、敗戦国からの分捕り品の分け前として、地金を鋳造し、対価として支払うという方法がマッチしたのである)
モラルの破壊
結婚や殺人、すなわち人間(命)に対する対価が「モラル」を象徴とする「古代貨幣」ではなく「力」を象徴する貨幣によって量られるようになると、こんどはその対価を支払えば、人間(命)をも所有できるという理論がまかり通るようになった。
「地位」も「名誉」も「奴隷」も、貨幣で売り買いすることが可能となり、それらを担保とした貸借をも実現することができた。(『負債』の完成といえる)
負債のモラル
負債とは、厳密に計量可能なものであり、その単位は貨幣価値である。
奇妙なことに、この負債は、かつて「モラル」の象徴であった時代の基準を、巧妙に存続させている。すなわち「借りたものは返すべき」であり、「返せないやつが悪い」というものである。
現代においても、「負債者は貸し主の奴隷たるべき」との旗印の下、発展途上国に、おおよそ完済不能な貸し付けを行い、永続的に搾取するというしくみが、国家間、個人間を問わず、あらゆるレベルで蔓延しているのである。
権利と義務と自由
些末なこと
権利と義務と自由。こうした概念は、「負債」という概念から派生したものであって、経済学的にであろと、哲学的にであろうと、政治的にであろうと、宗教的にであろうとなんら変わるところはない。ということはつまり、たかだか「資本主義経済」下でしかテーマとなりえない、些末なものなのである。
奴隷制
この社会で生きるためにはお金が必要だ。国家は納税の義務を課している。同時に、賃労働も義務とされており、その対価から貨幣にて納税する。だが、これは権利義務の話ではなく、国民として生まれた者に貸された『負債』の「永続的返済」。つまり奴隷制である。
ダブルスタンダード
国民の義務は明確だ。そしてその変わりに用意された権利は、実は権利とは呼べないものばかりである。
なぜなら、権利とは、国家が与えてくれたものにすぎず、もともと国家が生殺与奪権をもつことが前提となっているからである。
我々には権利を拒否するかわりに納税の義務から逃れるという選択権はない。
一方、収入がなく、納税不能=権利をもたない者に対しては、生活保護費用などを拠出している。このダブルスタンダードが、さらなる歪みを引き起こしていることは自明だ。端的に言って、「働いたら負け」がそれである。
信計(クレジット)
「負債」を中心にすえた本書では、「貨幣」ばかりでなく「信計」に対しても多くの事例を挙げて説明している。「信計」の発生は貨幣よりもずっと古く、官僚が倉庫の在庫を確認するために用いた帳簿に端を発し、その過不足について、地理的かつ時間的に融通しあう記録として機能し、約束手形的なしくみも用いられていた。
フェティッシュからの決別
昨今の、電子マネー等の勃興については、なんら新しいものではなく、むしろ先祖返りに近いのである。(ただし、あくまでも貨幣流通後のシステムである点は大きく異なっている)
貨幣がたんなるデータへと姿を変え、フェティッシュとしての形を失っていく今こそ、私たちは冷静に「貨幣の揚棄」を取り扱えるのかもしれない。
資本主義の揚棄
しかし忘れてはならないのは、貨幣が姿を隠したとしても、見えない貨幣を仲立ちとした資本主義が、より加速していくことは間違いないということである。
同時に、人々は確かなものをよりどころにしたい、という思いを捨て去れないはずだ。貨幣の時代と、地金の時代は、あるサイクルをもって現れるという。端的にいえば、争いの時代には地金が優位となる。
金との兌換を廃止したニクソンの時代から、貨幣は外貨間のパワーバランスによって均衡を保っている。外為市場は国家に依拠する。つまり世界戦争によって外為市場はパニックを起こすということだ。国家の危機にはネーションが国家を補強し、資本がその手助けをするだろうが、これはまた別のお話に。
ドル=ショック/ニクソン=ショック (世界史の窓 様)
バッドエンド
資本主義の揚棄が、戦争と資源枯渇によって実現するというのは、バッドエンドだ。私が生きている間に、日本国家が北斗の拳のような状況になる可能性もある。(むろん今この瞬間にも多くの難民が発生している国家があるのだから、このような状況はとっくに起こっているのである)
世界大戦によって先進国が軒並みダメージを受けるような状況になれば、資本主義はしばし機能不全に陥るだろう。だが、それをもって「資本主義を駆逐することに成功した」とみなすことはできない。
希望的観測
そのようなタイミングで、再び「枢軸時代」が起これば、宗教哲学思想を刷新する可能性があるのではないか。「金」よりも「水」を求める世界で、「力」という疎外の論理にではなく、「融通」という種的論理で暮らすことを求める脳の変革があることを、期待してやまない。
枢軸時代(世界史の窓 様)
しかし、この枢軸時代は、大国として安定した時代でもあった。この安定期にあって腐敗しはじめた人民、国家体制に対する批評としての哲学、宗教が力をもったのである。
もし、上記のタイミング(「力による収奪から支配に至る期間」に「優れた指導者によるコミュニティー」対抗し、「共産体制を確立」しようとするのであれば、やはり、「資本主義の失敗」を全人類が銘記し、二度と再び資本主義を発生させないと誓うしかないだろう。
おわりに
このブログは『負債論』そのものの要約ではありません。むしろ、誤解と浅はかさの中途までのまとめと思っていただきたいです。
「貨幣」がもたらした「負債」の概念があらゆる弊害を招いていることは明らかです。しかし、それを求めたのがほかならぬ「人類」であり、この貨幣による等価交換にどっぷりと慣れてしまった現在、この価値観を払拭するのは「外力無しには、」不可能でしょう。それが、資源枯渇であり戦争であったら、それは不幸なことです。
おまけに
「共産」はどうしても「アナーキズム」を要請します。ですが、「アナーキズム」を継続的に維持するためには「統括機関」が必要となります。このジレンマを解消する方法は「私利私欲に走らないこと」という非常に単純でモラリスティックなものになるのではないかと思うのですが、このあたりのことは、同じ著者、同じ訳者の以下の本を取り寄せて、勉強してみたいと思います。
アナーキスト人類学のための断章2006/10/31
デヴィッド グレーバー、 高祖 岩三郎
資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座)2009/3/30
高祖 岩三郎、 デヴィッド グレーバー
単行本
新しいアナキズムの系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)2009/3/26
高祖 岩三郎
流体都市を構築せよ!―世界民衆都市ニューヨークの形成2007/8
高祖 岩三郎
それでは、次回、『負債論』2 読後のまとめ まで、しばし、ご歓談ください。