はじめに
全ての「義務」は外部から与えられた契約の片割れだが、「義務」に見合う「権利」は保証されていない。ならば「義務」は「義務」ではなく単に「命令」であり「無理強い」であり「隷属」の証でしかないのだ。
自然には「義務」などない。「生きること」は絶対に「義務」ではない。
尊厳のありか
人間の尊厳とは「慰みものにされないこと」に見いだされ、これ以外にはない。それを踏まえれば現在の「尊厳死」も「安楽死(これは国内では違法だ)」も遅すぎる。
だから私には、尊厳死とは本人延命拒否による自然死で、安楽死とは本人の苦痛除去のための強制死だ。などという些末なことはどうでもよい。いづれも、身体に異常を来した場合の、それも末期においてのみ選択しうるものであるということに、絶望するのである。そうなる過程において「尊厳」はすでに失われているからだ。
尊厳をもって生き続けられれない状態
この社会においては「貨幣」を得なければ生きていくことは不可能だ。その主な方法は「賃労働」であるが、これによって「文化的な最低限度の生活」が保証されているわけではない。低賃金による長時間労働者の問題(ワーキングプア)は、「生存権」を侵している。怪我や病気によって身体がきかなくなるのとは別に、経済的に疲弊することによってこの社会における人間は尊厳を失う場合も多い。
納税のために生かされる
「総活躍」「キラキラ」「生きがい」などいう言葉で、健康で文化的な生活を送るためには到底足りない賃労働を70歳まで強いて、そこからしっかりと税金を納めさせた上、年金は減額される。
とっくに社会保障の態をなさない年金制度のために、我々は、健康に老いることを強いられ、倒れるまでこきつかわれ、倒れた後は、病院や介護施設に無一文になるまで搾り取られるだろう。
働いても、倒れても、十分に稼ぐことができなければ、同じように、搾り取られるだけだ。しかもこれは、幸いにして、就職できた者の場合である。
今は買い手市場だとはいえ、職種が限られるし、雇用形態も不安定なままだし、賃金も低いものが大半だ。たとえば、中高年の再就職率のハードルは高い。妻子を養うに足る賃金を得られる仕事など見当たらない。這いつくばって、泥水を飲んで、という生活状況が改善する見込みは皆無だ。
この状態で生き続けることは、つらいだけだし、この状態で生かしておいても、国家社会にはなんのメリットもない。それどころか、出費がかさむお荷物になるばかりではないか。
脱線:このあいだみかけた記事で、貧困層は食事の栄養バランスが悪く、炭水化物に偏りがちなので、成人病などを引き起こしやすいという調査結果がある。「もっと野菜などをとるべき」だと、報告は結んでいたようだが、野菜は高く、パンは安い。という根本的な事実を無視した提言である。
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黒コッペや、ビッグロシア。ナイススティックと同じ値段の、トマト一個もしくは、肉100グラムのみで、空腹を満たすことができない。「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」を引き合いに出すのはお門違いである。「お金がないからパンで満たす」のであり「砂糖水を飲む」のである。
自殺を選んだ者に「死ぬな」といって、怪我や病気をともかく、治してしまう。それで、その先の責任を負わない。ただのお節介。
生きるために必要な費用を捻出できなくなったから自殺を選択したのにもかかわらず本人の意思に反して「延命処置」を施され、就職等の斡旋もできぬまま「生き続ける事」を強いられる。
職がない。金がない。生きていけない。死のう。「死ぬな」。治療。借金。職がない。以下ループ。
この命の、どこに、尊厳があるのか?
尊厳死
尊厳死の定義によると、人間の尊厳は「自然死」に集約されるようだ。そうすると、「餓死」は「尊厳死」であり、「自殺」は「安楽死」という区分となるのだろう。
「公共の福祉」によって「自殺」を禁ずるという解釈には釈然としない。この憲法上の「公共の福祉」については、また別に考えてみたい。
経済的困窮により健康で文化的な生活が送れなくなり、かつ社会保障がこれを填補できないのであれば、「自死権」によって、「安楽死」を認めるべきである。
一切苦。が仏教の認識である。が、ならば「自殺しよ」と短絡しないのは、「輪廻」の考え方による。つまり今生を自殺で逃げても来世(さらに過酷な状況下で)生きねばならないよ、という予防線があったのだ。(「輪廻」に説得力がなくなったら、「地獄」がその役目をになうこととなった)(注:「輪廻」に説得力がなくなったのは、僧侶がそれを信じなくなったためである。そしてそれが仏教の弱体化を招いていると私は主張する、がそれはまた別のお話)自殺を禁じるのは、解脱に至る勉強をしなければもったいないと考えるからであるが、それもまた「生きる意味」を見出せない人々への対機説法であったように思う。「生き続けること」は宗教においても推奨される。ただし、カルトにおいては神の名において自殺することは尊ばれるものがある。死に意味を与えることもまた、生きることに意味を与える事でもある。がこれもまた別の話だ。
でも、合法化は不要だった
飲んで寝れば、苦痛なく死ねる薬。そういうのがあれば、きっと死ぬまで、毎日楽しく充実した日々を過ごせるのにな。
このようなことを考えた本当の理由は、「貧乏のまま、食うや食わずで暮らすのがつらい」というこの一点に尽きるということに、いまさらながら思い至った。そういう風に生きねばならないのなら、死んだ方がましだと。
なら、こんなブログを書くまでもなく、自殺マニュアルでも読んで実践すればいいだけの話なのだ。五体満足で暮らしているのなら、何年何月何日何時何分に死ぬ、と決定する権利も、実行する自由も、すでに手中にあるのだから。
経済的な理由で自殺しなければならない社会を何とかしたい。主眼はここにあったわけだが、福祉国家主義の破綻した日本においては、困難だ。
革命の志をもって、それを生きがいにしてみるか? でもそれじゃあ食えないだろうな、結局は……