望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

えらびもえらばれもせずとんぼである  ―人として生きるすべ

はじめに

 生物はそれぞれの形と生き方とが直結している。移動方式、行動様態、食性、生息域、繁殖様式などは、そのフォルムと切り離すことができない。
 それは「制約」である。が一方、そのように身体即環境といえる存在の仕方は、人間の及びもつかぬほど「天意」であり「自由」であり「楽」なのではないのかとも、思われる。

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 人間は人間という形をしているだけでは、生き抜くことはできない。人間は限りない選択を、みずからの責任において、決定していかねばならない。しかも、その選択は決して「自由」ではないのだ。

しなくてもいいことをして泣いている(小学生の川柳)

日下 on Twitter: "24時間テレビのマラソンを見た小学生が作った川柳「しなくても いいことをして 泣いている」"

かつては、ポケットビスケットだとか、帰れま10、だとか、一万円生活だとか。
 勝手に決めたルールのなかで、もがいて、あがいて、達成してみたり、解散させられてみたりする。誰も望んでいない、内輪の盛り上がりとしか思われない「人生ゲーム」。

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 人間でいる、とは、こういうことだと思う。

ネオテニー

 たとえば、「人間」の形をした生物を研究するとして、生身の人間の身体をいかに探求しようとも、自然での生存能力の劣等さから、「なんらかの生物のできそこない」か「突然変異的奇形」とでも考えるほかないのではないだろうか。知能の高さ、創造性といった目に見えない部分が、人間を人間たらしめているのである。そのため、身体はとことん汎用的に出来上がっている。
 人間は不完全なまま生まれてくるという。それは当然なのだ。もともと、人間は生き物としてははなはだ未完成な存在なのである。

人類補完見込み

 まづ補完見込ありき。の生命体?
 それは、ある特定種の体内に寄生すべく進化した寄生虫などにみられる特徴ではないか。宿主の機能をあらかじめ当て込んで、その部分は潔く退化させて、いかにしてその宿主へ入り込むかのプロセスの完成に尽くす、あの生っ白いきしめんみたいな彼らの進化系が人間なのではないだろうか。

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 だが、宿主を地球だと考えること。これは別段目新しい観点ではなかった。だから、ここではもう一つの宿主について考えてみる。すなわち「人間」である。

最終宿主としての「人間」

 人間は人間を養分とする。ただ、そのままでは養分にしづらいので、間接的に搾取する術を整備した。それが「経済社会」だ。地球上にある、あらゆる事物は、この搾取の対象となる。だが、あくまでもそれらは貨幣に転換することによって、そうなるのである。なぜ、直接肉を食らわないのか? そこからは差益が生じないからである。

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 寄生の構造は、あいも変わらずピラミッド構造をなす。事物は下から上に、貨幣は上から下に。そのレートは、つねに上位のものが決定権をもっている。下位のものほど、多く奪われ、享受できる貨幣はわずかである。それはつまり、上位のものほど寄生度が高いということを意味する。
 この世界での成功者とは、より完璧に寄生虫だ、ということになる。

人として

 人間の「苦」とは、
えらびもえらばれもしなければ人間ではいられない。
 というところに集約される。
 
 自分の特性によって食い扶持を得るなら、苦は幾分か軽減されるのかもしれない。だが、いかに天職だと思っても、常に「別の自分」という可能性がチラつく。
 トンボはトンボであるがままに、飛び、捕らえ、捕らえられ、食い、食われ、交尾し、交尾できず、死ぬ。だが、人間が、人間であるがままに生きる、という場合、それは「形而上学」となってしまう。青臭い理想論に後退してしまう。そして結局、穏便な精神論に落ち着いてしまう。それが最大の問題なのだ。

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自分らしさ不適格者

 人間は「自分らしく」あれ。というのが最大命題となっている。だが「自分」なるものほど不明瞭なものはない。「自分らしさ」を知ることは、自分の可能性を閉ざすことでもある。他の何者でもない自分、を見出したとき、自分はもう、他の何者にもなれないのだ、と諦めているのだから。
 「いくつになったんだ」「夢を追いかけるのもいい加減にしろ」「曲はもういいから働いて」これらの文言は、「自分らしさ」が「社会性適性」を欠いているとみなされた場合に突きつけられるものだ。
 「自分らしさ」は、職業選択の自由の建前のもと、そのいづれかに属することによってのみ、実現される。趣味の範囲でなら、いくらでも「自分らしさ」ごっこをしていればいい。だが、社会人となるべき年齢になっても、納税ができないような「自分らしさ」など、「甘え」にすぎないぞ。というのである。

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 社会は、納税の義務を果たせぬ「自分らしさ」などに、サービスを提供してあげるほど「甘」くはないのである。

選択義務の不自由

 あらかじめ用意された選択肢を不断に選択しつづけること。その選択は義務だが、選択の責任は自らが負うこと。そういった選択義務の不自由に対抗するには、出家するか、篭城するかの二つに一つだ。
 出家も篭城も、ある意味、寄生して生きることに他ならない。 この社会のピラミッドの頂点が「完全なる寄生形態」なのだとすれば、出家と篭城とは、「人間としての尊厳を守るための寄生」なのだといえる。搾取の規模からいっても、ひじょうに微々たる物であるし、私企業のため、余剰資本をプールするなどという守銭奴とは、比べ物にならないほど、善良ではないか。

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おわりに

 人間は人間であるというだけでは、不完全である。この不完全さを補完するために家族があり社会がある。 個人と家族と社会。人間は、生きること=稼ぐこと にすることで、共同体を機能させている。そしてこれら共同体間の闘争を勝ち抜くために、民族、宗教、国家を組織する。
 皮肉なことに、生きることと稼ぐこととが切り離され、生きること=食べること が露呈する現場が、貧困と戦争なのだ。
 そして、戦争においては敵から奪うことが認められているが、貧困の場合はそれが認められていない。これは暴動、革命の種になりうるはずだが、それもまた搾取の縮小再生産にすぎない。食わずに死ぬことをえらぶガンジーの態度もまた、多数の命を交換条件としたにすぎなかった。

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 人が人として生きたことなど、いままで一度たりともなかったのかもしれない。人間とはもともと、人間ではないのだし、この社会で人間になるとは、寄生虫になるということなのだから。