望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

異邦人から俳人へ カミュ『異邦人』を読んで 

はじめに

 新潮文庫の『異邦人』を読み返した。乾いた文を読みたかった。村上龍は生々しすぎる部分があるし、村上春樹は全般的に他人事すぎる。だから、異邦人。

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 だが、それは第一部の記憶だった。裁判と収監の第二部に至って、文体は、私の求めるそれとはかけ離れていった。理由は簡単で、主人公ムルソーが「内省」を始めてしまったためである。

 独房という変化に乏しい退屈な時間をいかにしてやり過ごすか。ムルソーはそこを誤ったのだ。

 そのとき彼は「俳句」をつくるべきだったのではないのか? だが、俳句には「異邦人」の筆記具としては致命的な制約に縛られていた!

というのが今回のお話。

理由

 『異邦人』とは徹底して「理由」を問う小説であった。

 ムルソーが「理由」とすることが例えば「検察」にとっては「理由」とは認められない。そしてムルソーが生きる社会では検察の理由のみが理由として認められる。

 なにか事件があると、人々はすぐに「理由」をさぐりたがる。それは無駄だ。

 理由とは個人的な問題であって、万人を納得させるためのものではないし、因果はあらかじめ決められたものではない。もし因果というものに万人が納得できる正解が、予め決まっているのだとすれば、自由など存在しないということになる。全ては何かを行った時点で、結論が明らかになっているということなのだから。

ムルソーは男を殺した理由を「太陽のせい」という。そして殺人の理由はこれしかない。だが、裁判では、この理由は認められない。そして、ごくありふれた殺人動機にすりかえられてしまう。

異邦人=旅人=客人

もちろん、この殺人理由が、社会的に認められない、という点において、ムルソーは異邦人=他者 と見なされるのだ、といってもいい。だが、そのような読み方はつまらない。共通の認識をもてない意思の疎通が不可能な存在者としての他者。異邦人とはそのようなものであり、共同体からは排除すべき異分子である。異邦人は旅人としてのみ、お客様としてのみ、そこに留まることを許される。

見ている世界の差異

感覚器としての眼

 第一部において、ムルソーはひたすら「見る人」であった。(その一点において、『限りなく透明に近いブルー』との比較が可能であるようにも思われるが、それはまたいつか)

 私が読みたかった文体とは、たとえばママンの埋葬の翌々日、日曜日の描写である。その日、彼は窓の近くに座って、ほとんど丸一日外を眺めている。この日の描写にある数時間の欠落については、今回は問題にしない。『異邦人』は、シーンを端折って描写することはほとんどない。ムルソーが感受する外界からの刺激を、そのまま反照する形式では、時間経過のまま愚鈍に描写していくしかないからだ。彼は決して「内語」しない。「思った」「考えた」「思い出した」「ということがあるだろうか」などの内省の言葉はほぼ使われない。

内省との距離

 夏目漱石の地の文は、屈折した内面を正確に描写しようとする。それは三人称を採用しているために生じる距離を有効に活用して、唯物的な趣を放っている。つまり「写生」的であるということだ。
『異邦人』はムルソーの一人称だが、彼の反応は全てが表層で反照する。彼は屈折した内面などという神話をもたない。したがって彼は写生することしかできない。二部になって追憶に逃れた時点から、写生は不可能となり、異邦人は囚人に堕す。

故郷の喪失者

 この小説が「今日、ママンが死んだ」から始まり、即座に「昨日だったのかもしれない」などと死期を暈すは、彼が産まれながらの『異邦人』であったことを象徴する。彼はあらかじめ故郷を喪失しており、その意味でどこにいっても変わりがない。そして変わらない自分だけが確かだという認識も、またもてずにいる。彼は彼と彼以外とを比較参照する対象をもたない。ゆえに、彼は孤独であり、自由=不自由なのである。

差異なき観光者

 観光する者にとっては、目にする新しい風物を、ただそのまま鑑賞すること以外になすすべがない。(とはいえ、彼は身体的な快楽や苦痛に敏感で、貪欲だ。性欲だったり、灼熱だったり、空腹だったり、疲労だったり。彼は素直にそれを伝え、その解消につとめるだろう)
 旅慣れたものであれば、かの地とこの地との差異について「思う」ことも可能であるし、「故郷」との違いは、旅情の定番であるともいえるのだが、『異邦人』ムルソーは、「どこへ行っても同じで、自分の生活は変らない」という。差異を創り出す基準を持たない旅人。それがムルソーである。


 そこには徹底的に強固な「自我」、あるいはその「自我」の不存在のいづれかがある。つきつめれば、自我の存在と不存在とはどちらも同じ様相を呈する。その一つが「恒常性」である。

司祭の眼

 死刑の執行が近づくなかで、ムルソーは司祭に世界に顕現する神の存在を「よく見て下さい」といわれる。だが、ムルソーほど世界を「見ていた」ものはない。そして、ムルソーが見ていた世界が、より直接的であり、剥き出しの世界だった。それは彼が「唯物的視点」に立っていたことを意味している。

異邦人の自由と不自由

 異邦人は居留地でのしがらみを持たない分、自由である。と同時にさまざまな制約を受ける点で不自由でもある。義務を持たぬ分自由であるが、権利を持たぬ分不自由でもある。この自由ー不自由は表裏一体で、いづれかを切り離すことはできない。

 重要なのは、収監前のムルソーに、不自由は何一つなかったということだ。退屈はあった。だがそれは社会的義務を果たしているときの退屈であって、不自由ではなかった。

 異邦人は自由のみを感じ続けることが可能な生き方なのである。

 不自由な面は受け入れてしまえばいいだけなのだから。「当然だ。こちらのやり方に従うしかないのだ」と。
 そこに何らかの働きかけを行い、法律を変えさせるなどいうつもりは毛頭ない。異邦人は革命を望まない。革命よりも移動を選ぶだろう。

異邦人から囚人へ

 二部において、ムルソーは独房での長い時間に不自由を感じる。以後、文体は内省へと変化していく。主な理由は「移動の禁止」による「追憶への逃避」である。

 私は『異邦人』という小説を読み終え、『受刑者』または『囚人』という別の小説を読み始めたのだと錯覚してみることさえできた。

 ここからは、ひたすらつまらない。
 ムルソーは単なる変わり者であり、それは検察や裁判官や弁護士が、ムルソーを理解できないために変わり者である、のではなく、一人称の文体そのものが「法の執行人たちとの差異」に関する内省に埋め尽くされていくことから生じている。彼が差異を感じるとき、彼は異邦人でない。彼が不自由を感じる時、彼は自由ではない。彼が不満を覚えた時、彼は共同体に組込まれている。

追憶

 独房で過ごす長い時間。彼は小さな窓に映ろう日の光や、壁の石組みの一つ一つを飽くことなく眺める。それはいい。だが、そののち彼は、彼が住んでいた部屋の家具などの詳細を思い起こすことに夢中になる。「人は一日生活すれば百年分に足りる思い出をもっているのだ」などという。

それを可能にしたのは異邦人の眼であった。だが、もはやその眼は閉ざされ、ひたすら記憶をたどるだけだった。これがホームシックであることに、ムルソーは気づいていない。そして、ホームを拠り所とし、そこからの疎外を感じる異邦人などに、なんの魅力もない。

俳句

第三部「俳句」

 ムルソーは、変化に乏しい独房にあって、その石組みの一つ一つ、窓からおちる光、影、匂い、音を、これまでの眼をもって観察し、「俳句」を読むべきだった。俳句という唯物的鑑賞(写生)を盛る形式は、独房での果てしなく退屈な時を超える最適の方法だったと思う。しかも、俳句は内省を必要としない。観察=心境が写生の醍醐味だからだ。独房で詠まれた数千の俳句。『異邦人』は自分の斬首によって人々に慰みを提供しようなどという殊勝な旅芸人のような感傷に浸るのではなく、そこでものした句集を第三部として収録し『異邦人』のままに終えるべきであったと思うのだ。

俳句の不自由

 と、俳句の有効性を打ち出しておいて即座に、「定型」と「季語」の問題に引っかかっておく。
 俳句の他者性は大いに活用すべきところなのだが、いかんせん「季語」というものの「共同体性」をどのように解消すべきであろうか。異邦人の言語は、共同体の外からくるものだ。「季語」は通用しない。

 また、一方それだからこそ「季語」も、この地の意匠として、ポストモダン的に用いて何がいけないのか?
 と開き直ることもできる。それぞれの土地で慣習化している季語を用いたからといって、異邦人が共同体の一員となったということもあるまい。

 また「無季」でいいではないか。という意見もあるだろう。異邦人の眼による唯物的写生がその場における「季語」と同程度の言葉を見出す可能性も高いのだから。

 では、定型はどうか? 自由を貴ぶ異邦人は、五・七・五 の定型を厭うだろうか?

 独房においては、この制約こそが自由をもたらすものに感じらえるのではないか、というのが私の意見である。この不自由さこそが、俳句に自由をもたらしている、と考えるからである。俳句は形式と季語を備えていれば、体裁だけは整えられる。これを自由とみるか、不自由とみるか。ようはそういうことだ。

 ありあまる時間を、写生で費やす。しかも、そのための道具が貧相であるのならば、俳句以外にはない。うまかろうが、まずかろうが。外界と関わり続けようとするのならば。そして、世界には外界しかないのだと信じるのならば。