はじめに
だがまれにその(共有される言語の空間)全体を攪拌する力を持った個が出現して、言葉のエントロピーを増大させる。その時生まれる混沌に秩序を与えるのは、その言葉の受け手であり、また共有される言語空間の力学である
(『子規の近代』秋尾敏 p.198)
キュリオス ―佐藤優樹さんの11文字
4月20日。モーニング娘。'18の皆様が、「ダイハツ キュリオス」を見に行かれました。その夜のブログに、メンバーの皆様の「感想」が並ぶこととなりました。
「魂の伝道者」石田亜由美さんのブログでは、熱量たっぷりのレポートと感想が、とても上手に書かれていました。
おばんですっ石田亜佑美です(^○^)今日は、観劇させていただきました!目に見えない想像の世界を、目の前で繰り広げてくれるような、夢みたいな世界です想像って無限大だから、あれこれ何でも考えられますけど、それを実際に行う凄さ‥‥そして、そんな世界を目の前で見れる感動機械的な世界観だったのですが、人の動きも機械的で‥‥いや、もはや人とは思えない動きでした"アクロネット"という、多きなネットの上で技を披露する演目の時、個人的に、1番声を出して盛り上がってしまいました凄すぎて「ふぅ~~~!」って自然と出る"エアリアル・ストラップ"という、男性2人が1体となった状態で、リボンにぶら下がり宙を舞う演目は、とても美しかったです!体を支えるための筋肉は凄いのですが、筋肉=力強さではなく、しなやかで美しいものでもあるんだ、ともちろん他の演目も!!見ごたえがありすぎて、時間があっという間でした想像の世界も無限だけど、人間の力も無限なのかもしれませんねなんか、全然違うステージですけど、土日のコンサート頑張ります!!!!!(後略)
舞台の内容、それを見る彼女の興奮。そしてそれを自分達のコンサートに反映させようという決意を、これほどきちんと伝えらえれるのは、彼女ならではのことと感心します。
ですが、
佐藤優樹さんは、石田さんが伝えようとしたことと、それ以上の内容を、たった11文字で表現し尽くすのです。
キュリオスさいこーーーー(≧∀≦)本当にありがとうございました♡面白さが爆走美しさが描写化している♡
っていう感じです♡(後略)
美しさが描写化している
ダヴィンチのスケッチ
彼女が使う言葉として「描写」はずいぶんと固いのです。
#人体展 #ディズニー35周年 飯窪春菜
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昨日はお休みだったので、昼間は佐藤優樹ちゃんと上野でやっている人体展に行ってきました〜!いぇーい!もともと博物館に行こうって約束だったんですけど、気になっていた人体展もやってたからまーちゃんに付き合ってもらって、その後常設展の方に行きました(*´◒`*)でも私以上に楽しんでたなぁ!笑人体展、わたしには難しかったです!分かったのはレオナルド・ダ・ヴィンチがすごい人だっていうことでした!笑笑常設展では恐竜を主に観る感じでした〜(*´-`)(後略)
ダ・ヴィンチものめりこんだ世界!?ダ・ヴィンチなどの様々なスケッチを、佐藤さんは見たことでしょう。そしてそれらの卓越した「描写力」に感心したのではなかったでしょうか。ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチといえば、「モナ・リザ」などの名画を思い浮かべる方も多いはず。そんなダ・ヴィンチですが、実は人体を描くための理解を求めて人体解剖を行い、多くの人体解剖図を遺したことでも有名です。この解剖手稿からは、彼が自ら人体の構造を説明することにのめりこみ、考えを巡らせた痕跡を見て取ることができます。レオナルド・ダ・ヴィンチ
【右】「解剖手稿」より頭部断面,脳と眼の結びつき部分
1490-92年頃(イギリス・ウィンザー城王室コレクション)
【左】「解剖手稿」より消化管と腎臓、そして尿管部分
1508年頃(イギリス・ウィンザー城王室コレクション)
Royal Collection Trust/© Her Majesty Queen Elizabeth II 2018
「美しさ」が描写「化」している
幸せはてんぷらそばのように運ばれてくる。
心のポッキーを折らないで。
なくしものは小人を探すのと一緒ですよ。彼女にとって「観念」はすべて表層に「モノ」として現れています。というか、彼女にとって世界は「混沌」であり、その混沌から彼女が掴み出したモノとしての手触りだけを、佐藤さんは自分の現実として語りうるのです。(上記の言葉には全て、意味があり彼女はそれを説明しています)
読者を挑発し、解釈の冒険に旅立たせる表現こそが詩の言葉である。(同書)あたかも、日本人が形而上学を唾棄し、〇〇道のような「形」に即して捉えたように、佐藤さんは、全てを、身体性においてとらえ、しかもリアルタイムに捉え直し続けているのだと思いました。
佐藤さんにとって「美」とは何か
―キュリオスは美しさ「を」描写していました。 ではなく……
美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。(小林秀雄)
といった、小林さんの態度は、唯物的なようで実は「美しさ」を論じることを回避しているだけでした。が、「美」そのもの、の存在を認めず、それはコトによって顕現した分だけを感受(甘受)するしかないものである、という意味で、この言葉から掬い取れることはあります。
佐藤さんにとっての「美しさ」も「美しさそのもの」として描出できるものではないのだろうと思いました。
ただし、モノを離れた「美のイデア」を、彼女は、自分が生きるカオスの世界から「掴み出す」ことができ、それをコトの上に見出そうと努力しているのだと思います。
美しさそのものを描写することはできない。「美しさ」のみをコスモスに取り出すことが不可能だから。だけどキュリオスにおいては、その根源的、本質的、イデアとしての「美しさ」を「人体」上に顕現することにかなり迫っている。美しさを、正鵠に、克明に、そして美しく取り出し、スケッチするように表すことに成功していたような気がする。
(キュリオスによって)美しさ「が」(克明に顕れた)描写「(と)化」している。
この十一文字は、佐藤優樹さんにとっての「美」を、言い表す「詩」だと思います。
メディアとしての佐藤優樹さん
滑稽は状況を見つめ直し、それまでの視点をずらしたり、常識的な世界観を対象化する意識によって生ずる。それは今まで言わなかった、あるいは言えなかった事象を言語化するという行為である。そのとき滑稽は本当のことを言ってしまうという点において、客観とか自然主義とかいうものと重なりを見せるのである。(同書)
メディアが必要となるのは、人間の意識が過剰であるか、人間の機能に不足があるかのどちらかのときである。(同書、同頁)
ですが、私は決して佐藤さんの前を歩くことはありません。彼女が開く世界に戸惑いながらそれを楽しむことができるだけです。
すべての文字言語は、自然の進歩によって性格を変え明快さを獲得すると共に力を失う。(ジャン=ジャック・ルソー)
佐藤優樹さんの11文字。それがこのブログの全てです。