望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

SDGsの持続と格差

はじめに

エシカルがブームになりかけて、途端に静かになり、かわってSDGsが高らかに宣言されたとの感を持つ。

エシカルという包括的で、消費者を操作する運動では、経済発展の足を引っ張りすぎるからだろうと考えている。

SDGsは、消費者より企業側に主導権がある目標なので、エシカルという厄介なものよりも、政治で制御しやすいのだろうと思う。

SDGs掲げられている目標は、どれも「開発」とは相容れないものばかりだ。とくに、自然破壊と貧富格差は資本主義のドライブの必要条件だから。

SDGsを私は「持続(的搾取)可能な開発目標」と捉えている。

持続のための犠牲

安く調達し高く売上げる。それが資本主義経済の要諦であり、それは「企業」存続の必須条件でもある。

株式会社は民主主義にとってベターな形式だが、エシカルな規制なしでは大発生するイナゴのように貪欲な性質を抑えられないし、実際抑えられていない。

実際、現在の新型コロナ渦においても、政治は経済を優先させ、倫理的な観点における末端の個々の労働者の命は、軽んじられている。

企業は利潤をどこからどのように得てもよく、資本もまた同様だ。

そして国家は、国民を、どこからどのように受け入れてもよい。人口減少を移民によって補填する政策とは、労働力の確保、つまりは税収確保の方策だ。

だが、労働者は自らの時間と労力を経営者に売ることでしか対価を得られず、そこは常に買い手市場である。それゆえ、労働者は自らの付加価値をアピールしなければならない。付加価値をもたない労働者は文字通り、いくらでも変わりのいる使い捨て部品にすぎず、人間としての尊厳は失われている。したがって、国民としても認められない。セーフティーネットは国家福祉主義の根幹のはずなのだが。

国家が企業と利益相反するのはただ一点「社会保障」においてのみである。その保障をどちらが、どの程度費用負担するのか。むろん国家は必要とあれば、国民(労働者)から、企業を経由して徴収することができる。

等価交換

安く調達するためには、コストが安いところで生産しなければならない。コストが安いところとは、物が余っているところではなく、物が極端に不足しているところであり、そこに住む人々に選択の余地のないところである。世界的な原料輸出国の大半が、発展途上にある理由は、その地位にとどめ置いておかなければ、製品を安く調達することができなくなるためである。

そのとき支払われる対価は、その国の情勢に見合った額面であり、遠くの豊かな国で、膨大な利益を産んだとしても、それが還元されることはないが、それは「等価交換」であって「搾取」とは呼ばない、というのがこれまでの慣例だった。

だが、貨幣価値の格差もまた、それが企業にとって(つまり、資本主義経済にとって、ひいては、先進国にとって)必要だから据え置かれているのである。

その意味で、真の意味でフェアトレードとはその製品によって得た利益の配当をも行われたうえで、そこからそれが公平であるか否かを考えるべきだろう。企業組合の形式は、フェアトレードエシカルにおいて有用なたたき台となる。

国家内格差

安く調達し高く売上げること。

国内における単純労働者は、選択の余地のない場所に生活している。周囲に物はあふれているが購入できないのだから選択できないのである。

彼らに富裕層の資産や企業の利益を分配する仕組みが社会保障だが、日本国憲法第25条。 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

という努力目標は、「最低限度の」、という条文によって「貧困」に据え置かれる。

株式会社は、資本と経営を分離したというが、これは労働者を人間から阻害するしくみなのである。だから、企業は自らの延命のためにリストラをし、給与は費用勘定なのだ。給与が費用勘定だからこそ、赤字決算においても給与が確保できるのであり、これが配当だったらゼロもしくはマイナスになるところだ、という言い方もできるが、そもそも費用はギリギリまで抑えることが、常道である。

また、役員への給与と単純労働者への給与のバランスも極端に偏っている。為替差益のない同国内において、これほどの格差を生じさせることは、やはり搾取であり、不公平な配分であり、それが慣例化していることは、つまり労働者は人間ではなく、しかも顧客ですらない。ということなのである。

実際、自らの企業の労働者をメインターゲットとする企業などない。なぜならば、企業は高く売りたいからだ。薄利多売というモデルが人口減少と、貧富格差の拡大によって成立しなくなれば、労働者は消費者としての立場すら剥奪される。労働者でも消費者でもない経済からの疎外された存在とは、ある意味で、野生である。ならば生きるために命をかけて闘争するしかない。それは暴力によって行われる。

給与のほとんどを天引きされて三食付の社員寮に、いつ雇い止めを宣告されるか分からない状態で生きるか、就職できず生活保護も受けらなければ、非暴力不服従を徹底して餓死による抗議行うか、暴力によってその日その日を食いつなぐ野生種となるか。いずれにせよ、経済社会は敵となるのである。

ボランティア

活躍できない人間は国民ではないと安部政権が宣言し、自らの人生を単純労働に安く買い叩かれることすらかなわなかった大量の難民に、NPO,や宗教が手を差し伸べる。炊き出し。共同生活。形式はやはり同じだ。

活動費用は資産家、篤志家、からの寄付ということになるのだろう。

災害ボランティアには熱心であっても、貧困者をすくうボランティアや寄付には及び腰なのは「充実感」「役に立っている感」に乏しいということもあるが、やはり「自業自得」だという気持ちが強いからではないだろうか。

災害は自業自得ではない。自らに付加価値をつけ、経営者、資本家となる才覚をもてなかった自己責任だと考えるからだ。そしてそれはある程度正しい。だが全員がそのような才覚をもち人を使う立場に立てるわけではない。

持てるものが持たざるものへ与える。それがボランティアだ。結局、格差がなければボランティアもない。

困ったときはお互い様という精神は、貧困救済に関しては成り立たない。困る人はいつでも困っており、それは決して解消されることはない。SDGsとして、職業訓練を受けて、運よく就職したところで、企業から契約期間内に継続的に搾取されるだけだ。

限りある地球

持続可能な開発。に似た違和感をずっと以前にもったのは、「再生可能エネルギー」という奇妙な造語だった。

太陽光発電パネルの太陽年数と設置による甚大な土地開発、環境破壊。そしてパネル廃棄についての無策、などは以前に書いた気がする。風力発電の設備も同様。再生可能とはいったい何のことだろうか、という違和感とまったく同じなのだ。

持続可能な開発。

人間は地球から資源を略取する。

地球は有限の大きさを持ち、人間は地球を作れない。

さて、持続可能な開発とは?

そして何年持続すれば目標達成なのか?

持続可能な開発と、きれいな水、職業訓練の関係?

全て、自由資本主義の資源供給国への組み込みのための能書きと、特典としか思えない。

資本主義は右肩上がりでなければ持続しない。それはあらゆる資源の枯渇を無限遠に繰り延べることでしか成立しない搾取の体系だ。より高く、より早く、より強く。この目標には期限がない。一方、世界は有限なのだ。

自然においては、不要なものは何一つない。すべてはバクテリア等によって循環するシステムを保ってきた。それは文化である。だが、人間は文明を発展させた。文明とは文化を破壊する仕組みであり、持続可能性を省みない一方通行のテクノロジーだ。

持続可能な開発とは何か。それはどのように可能なのか。

持続的搾取可能な開発とは、たとえば、月面から資源調達するとか、地球という閉鎖環境を太陽系、銀河系へと搾取の場を広げて、枯渇を繰り延べるしかない。テクノロジーによる新エネルギーの発見の場合も、延命措置にすぎないからだ。

もしくは、閉鎖環境に留まって、消費を極力抑えるかという、かつて聞いたことがあるような絵空事が、現実的な自然破壊と資源枯渇によって、自業自得的に実現するかもしれない。

前者が積極的なSDGsで、後者が消極的なSDGsである。そしてこれ以外に道はない。

おわりに

エシカル消費において重要なのは、内部的にはトレーサビリティーで、外部的にはディスクロージャーで、これらを監視する第三者機関が機能することである。

そして消費者は、第三者機関による格付けによって、悪い企業に対する、不買や就職拒否などによって体制の改善を求める。その代償は、これまでよりも高価な(つまり適正価格の)品物を購入すること。

エシカルの指標は、SDGsの比にならないほど多岐にわたる。その中では資源の無駄を監視することも不可欠であるが、それもまた延命でしかないということは明らかなのである。

人類はクリーンでエコな環境を保つ文化を築けなかった。次の世代の宇宙の人類にはその先を期待したい気持ちである。