望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

戦前の気配 リオでカーニバル!

 1994.4 「季刊 批評空間」第二期第一号の共同討議のテーマだった『戦前の思考』。二十二年を経てなお、このテーマはアクチュアルだ。なぁんて。
 それにしても、昨今は移民問題とテロ問題と国家主義問題とが浮き彫りになってきましたね。世界情勢なんか通りすがりのBSニュースでしか知らない自分にとっても、キナ臭いことで、なぞと思わせます。
 みんな、忍耐を忘れてしまったのかしら? 忍耐とはそれ以外の選択が無い場合にとる態度だ。だなんて。
 忍耐。代理。おためごかしの限界で、踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら……

格差 上からみても下からみても

双方が脅かされていると感じる仕組み

 持つ者の苦労と、持たざるものの苦労。どっちも苦労なら、持てる者の苦労のほうがいい。
 持つ者の苦労は守るための苦労。 持たざる者の苦労は手に入れるための苦労。 有る物を減らさない苦労なぞ、無から有を作らねばならないことに比べたら苦労ですらない。
 唯一の手段は奪いとること。
 これにより守ろうとするものと奪おうとするものとの対立図式が成立する。

 資産があるのは正当な権利だ。そのための努力も惜しまなかった。境遇を貧乏の理由にするのは怠け者の証拠だ。それに我々は納税や福祉事業に力を注いでいる。よりよい世界の発展こそが、人類共通の願いのはずだ。(資産家の家に生まれる、という生まれの格差については、政府は「相続税」負担を増すことで是正しようとしている。だが富国のため法人税は引き下げられていくので、個人資産が企業の資本に回るだけだ)
 資産は有用に活用されなければならない。世界中の陸地を海に放り込んだら地球から陸地はなくなり、箱舟のない我々は全滅になる。稼ぐ才覚と使う才覚は「資産運用の才覚」として統一的に考えなければならない。ただ、消費するだけの連中に渡したら、回収に手間取るだけだ。

 資産がないのは資産家に奪われているからだ。機会も自由も報酬も奪われ続けてきた。こんな人生は奴隷とかわらない。(就業は義務であると同時に自由がみとめられており、雇用契約もまた自由契約であるとの建前がある。実質は、金がなければ生活できず、金のためには働くしかなく、働くためには雇い主の条件をのむしかない。つまり選択肢は無い。実質的な奴隷とはこういうことだ)
 奪われたものを取り返すのは正当な権利だ。慈善事業だの社会貢献だの恩着せがましいにも程がある。奪い取っておいて配給してやっているという態度には我慢がならない。

満足することは諦めることなのか

 現状に満足できればいい。 満足できなればMDMAでも打ってくれ。 経済的安楽死安楽死
「維持」しようとすることは「守ろう」とすること。したがってそこには「持つ者の苦労」が生じる。
 日々の糧を托鉢でまかなう修行僧。明日はコメが得られるかどうか分からないが、それはどちらでもかまわない。満足という価値自体、修行僧には不要なものだ。
 何も持たずに生きていくことは難しい。 多く持っていても、少なく持っていても、守る苦労が生じ、より多く持ちたいという欲望が生じる。多く持つことが「未来」を担保する。だが資源は限られている。つまり、「未来」を生きられるのは限られたものだけだ。

 満足することが、諦めることに繋がるのではない。満足することこそを、諦めるべきなのである。

守るための戦い:限られた資源の中で

 限られた資源を どのように奪い、分配すべきか?
 まずは自分と自分に近いもの。そしてコミュニティーを組むもの。同じ国籍。同じ民族。同じ宗教。同じ地球人。 こう考えると仲間意識は広がっていくように見える。
 しかし、実際は逆だ。分母が定まっているなら分子は少ないほうがよい。
 地球人全員を仲間とみなすわけにはいかない。 宗教にも様々な違いがある。 同じ民族とはいえ住む場所が異なれば考え方も変わる。 同じ国籍といっても民族、宗教、地方によって信条は異なる。 近隣の人々でも主義主張に隔たりはある。 コミュニティーを組めるのは志を同じくするものだけだ。信頼でき有用な者たちだけだ。
 それ以外は敵だ。資源を奪い、未来を奪う敵だ。 仲間を守るためには、敵を倒さなければならない。 敵を倒して、裏切り者を粛清して、みんなが平等で安心して末永く暮らせる世界を実現させるのだ。

理解による自己犠牲と価値判断基準

 分母が限られているのに「分子」を減らさないことを美徳とする風潮が問題なのだ。
 産めよ、増えよ、地に満ちよ と言った神がいた。地球にはそれだけの資源はないのに。
 ならば、率先して命を絶とう、という奇特な救世主(ネガティブメシア)とそれへの信者達は登場しないか?人民寺院との違いは、世界を救うために確実な口減らしになるって点だけども数十万単位でも足りないか…) 

 膨大に稼ぐ者が、足るを知り、余剰を他へ分配してくれるのは、ありがたい社会だが、それは主従関係となるだろう。
 一人一人が足るを知り、必要最小限のみを生産し、稼ぎ、消費することができれば主従関係は成り立たない。(しかし、資本主義は成長を見込めなくなってしまうから、断固阻止するだろう)
 文明の発展など必要なかった。高度な医療も不要だった。自由平等などという高邁な理想のみを振りかざし、不老不死を目指すのであれば、減ることのない人口を常に満足させる資源供給の手立てをも講じるべきだった。 全ては自縄自縛。身から出たさび。
 いえ、そんな帰結も予測できず邁進してきたとでも? 賢い人はきっと、何かよい手立てを考えていてくれますって。口減らしと奴隷制度の復活、みたいな安易な方向ではない方策を。
 このままでは、身内を守り、奪われた資源を取り戻す 戦いが加速するばかりだから。

価値基準そのものの変革 エシカルな投資? お題目ずらずら

 守るのではなく、与えることにシフトする。理解とは合意ではなく尊重であるべきだ。 所有を放棄して、限られた資源を、有効に活用する術を考えるべきだ。皆が合意すれば、貨幣は不要となる。国家や企業とは支配欲でしかなかったことが分かる。それらの解体を加速する運動に、投資を行い、事がなった暁には、利益を廃棄する。労働は全てボランティアとなる。必要とされることを、協力して行い、その日の糧を得る。
 環境が欲望の雛型を作る。欲望の雛形が環境を加速度的に変革する。
 全ての所有に関わる執着を無意味と感じられるようになるまでには百年単位で足りるだろうが、それまで、資源は持つだろうか?人間の忍耐は持つだろうか?そもそも今、人間は、忍耐しているだろうか?

各論

国粋主義民族浄化 - テロ:宗教+民族+経済 代理戦争

 異なる神を認めないというだけならよいが、異教徒を殲滅せよ、との教義があるならば厄介だ。その実行は、テロという形をとり、いづれかが戦意を喪失まで、殺しあいが続くことになる。
 しかし、神様も決着つけるんなら上のほうでやってもらいたい。人類に代理戦争をけしかけたり、忠誠心を確かめるような真似をしないでもらいたい。
 テロの正当化の理由として「報復」が使われている。どちらかが殺戮をやめない限り憎しみは止まない。ジェノサイドへの一方通行。遺恨が残らぬように、一族郎党皆殺しだ。

 認めるべきを認め、返すべきを返し、補償すべきは補償するということを怠っていたとするなら、まずそこは是正すべきだという原則論がある。
 武器の供給源を絶つという、より現実的な方法もある。
 代理戦争のようなことをせず、武器の供給元を表に出して戦争にしてしまえば、構図はすっきりする。

 代理戦争は、決着を長引かせたほうが利益を産むが、テロは「遠い国の内戦」という枠に収まらなくなってきているので、当事国は涼しい顔をしていられなくなっている。戦争にはしたくないけども、戦争にすればもっと大規模な作戦ができる。

 宗教の倫理観は相対化を許さない。日本ではオウム真理教があった。政府は信者を殺害していないので、犯罪者として逮捕することができた。だが、一連のテロでは、互いに殺しあっている。もはやどちらにも正義はない。どちらも人質となっているのは市民であるが、国際経済社会に住んでいる以上、善意の第三者などどこにもいない。

移民:国家主義+民族+(資源=経済)+宗教

 内戦、テロ、経済破綻などで大量の移民が保護を求めている。
 よそ者を養うゆとりはないからと、国境に壁を作り、押し付けあっている各国の対応。
 移民とは、奪いにきた者だ。支払うことなく食べて暴れて汚していく者だ。雇用も奪う。雇用を奪えなければ、家財を奪いにくる。

 なりたくてなったんじゃない。国が悪い。戦争が悪い。自分のせいじゃないから、多少の融通はきかせるべきだ。だって、被害者なんだから、と。

 困った人に手を差し伸べるのは、義務ではなく好意だ。利害関係ではなく、気の毒だと感じる心だ。
 資金も足りない。土地も足りない。人手も足りない。インフラも不足している。なによりも、優しさライセンス(by ダウンタウン)が足りない。有り難いという謙虚さが足りない。
 システムとしては、移民のための第9地区を設定し、そこにコミュニティーを作らせ、可能な限りその区域で、完結させてもらう。
 与えるものは場所を提供したという。与えられた方は劣悪な環境へ隔離された、と考える。不満を募らせ、内戦の火種となる。

 民主主義において、多数決の結果に従うという原則がある以上、大量の移民に参政権をもたせるわけにはいかない。だが政権進出が阻止されれば、大規模デモからクーデーターへと発展するかもしれない。「奪われたものを取り戻すための闘争」

 軒先を貸して母屋をとられる 各国の懸念はここに尽きる。

連携という闘争=内輪の狭小化と近隣の仮想敵

 みんなで仲良くするためには、仲良くできる子だけで集まればいいという方法がある。仲良くできない子は仲間はずれにする。そのほうがお互いのためだから。
 仲良くできなくてもいいから、一つのグループを成立させる、という訓練は必要だ。嫌いな子とも仲たがいしないで一緒に遊ぶ方法について。

 その際、外に脅威が迫っていれば、内部は結束しやすくなる。敵は、一種のカウンターストレスとなるからだ。

 その敵となるのは何か?
 家族内のものなのか、近隣住人なのか、市外のものなのか、国外のものなのか、となりの教区のものか、外国人か、資本家か、労働者か、犯罪者か、政治家か。
 敵対する相手によって、味方の結束の度合いが決定する。味方を作るのは敵である。そして、敵が失われた時、味方もまた失われる。だから、仮想敵による結束は、一時的な共闘体制にすぎない。そこには理解も、連帯も、共感も無い。有る意味で、思考停止状態における、群生の器官でしかないのだ。

 仮想敵はつくらないことだ。敵の無い状況で、共闘する必要の無い各個が、自分以外の者を尊重しつつ共生すること。
 足るを知り、奪わず、不要なものを生産しない生活。それぞれを支えるのは、責任感でも、義務感でも、生きようとする意思でも、未来への期待でも、宗教でも、享楽でも、なんでもいい。理解とは共感ではなく、尊重することである。それは時として、干渉しないという態度に似ている。だからカーニバルが催され、そこで交感するのである。

ということで、リオでカーニバルしてみたら? が今回の着地点でした。