望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

覚めない悪夢 ――『悪夢探偵』のラスト30分を見て

以下のブログは、2007年の『悪夢探偵塚本晋也監督の結末部分のネタバレを含みます。ご注意ください。

はじめに

 偶然、テレビで見たそれは、見たかった映画だった。理由は、それが「塚本晋也さんの映画」だったからだ。

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 番組表によると、見始めたときはすでにラスト30分のあたりだった。hitomiさんが眠るまいと七転八倒するシーンだ。そこにすさまじい違和感を覚えた。塚本晋也さんの映画だということを忘れていた私は、「こんな映画につきあわされて塚本さんもいろいろ言いたいことがあるだろうに」と思っていた。

 たとえばhitomiさんの役が、『エンジェルダスト』(石井 岳龍さん 改名前は石井 聰亙さん)の南果歩さんなら、もっと上手なのではないか、とか考えたのだが、この映画が「塚本さんの映画」であったことを思い出し、改めてこの違和感の理由について考えざるをえなかった。すると、南果歩さんでは、きちんと溶け込みすぎるのだろうなと思ったのである。

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違和感

 まず、映画とは思えないカメラアングルと質感だ。深夜のテレビドラマを見ているようだった。映画館であれば音響があるので、もしかしたらそういう印象は薄れるのかもしれないが、とにかくこじんまりとして、つるりとした質感の映像だったのだ。

 そして何よりもhitomiさんの演技である。表情も動きもセリフもぎこちなく、フラフラしていて安定しない。世界観ぶち壊しなのではないかと感じた。だから、アップの多用や、ヘアメイクの派手さで、パニックや焦燥感を盛るしかないのだろうと、始めのうちは思っていた。

 そして、松田龍平さんの抑えた演技。いや、演技とは思えない演技。動きも声量も表情もとにかく抑えている印象がある。そういうキャラ付けなのだということはわかる。役どころ的にも、そうすべき演技なのだと思うのだが、ほぼ棒立ちである。

 最後に、塚本さんの滑らかでうますぎる演技とセリフ。表情。世界観に完全になじんでいて、奔放で水を得た魚のようである。ほかの二人に比べれば圧倒的に「生」を感じた。そして、塚本さんが映っているときにだけ、画面が「映画」になるのである。

 つまり、ズレなのだ。三人のレベルの著しいズレとかみ合わなさ。それらが同じ画面でやりとりするという違和感。

 しばらく見ているうちに、この違和感を「事故」ととらえるのは塚本さんを見くびることだと、私には思われてきた。監督がOKを出したのなら、それは監督が表現したかったものなのである。では、監督はこの違和感に、どのような意味を持たせていたのだろう。

レベル=階層=レイヤー

 私は事件の発端も展開も知らない。松田さんの生い立ちも、hitomiさんが巻き込まれた経緯も知らない。

 それでも、塚本さんが犯人であり、夢に立ち入って「眠ると自殺する」という暗示を夢の中で与えて殺害しているらしいことは分かったし、松田さんは、その悪夢に入っていける能力をもっているのだということも分かった。

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 悪夢はストレスやトラウマに起因するらしい。塚本さんの強烈な幼児体験。それと似たような体験が松田さんにもあった。溺れる回想シーンから、親に殺されかけたことがあったのかもしれないと思う。その意味で、塚本さんと松田さんとは似たもの同士であり、通じ合うところがあったのだろうと感じる。

 だが松田さんは、自分の能力を喜んではいないようだったし、塚本さんも自分の「死」を恐れるあまり他人を誘おうとしているのではなかったかと感じさせる。二人に共通するのは、悲しみであり、死への衝動である。それを受け入れようとするか、拒否しようとするか。その違いだけが二人を隔てている。

 むしろ松田さんのほうがそれを受け入れようとしているのだ。と思う。

 ラスト30分で繰り広げられるのは、「悪夢」の中の世界である。それは、hitomiさんが切り刻まれる(現実には、自傷する。もしくは転落、または溺死する)はずの夢である。だが、それは同時に、塚本さんの夢でもある。

 この三人の違和感とは、この「悪夢」に対する立ち位置の違いなのである。

 塚本さんが、hitomiさんのストレスと塚本さん自身のトラウマから作り出した「悪夢」に、闖入した松田さん。

 ホームグラウンドである悪夢。

 無理やり見せられている悪夢。

 自分に似た者が作り出したおぞましい悪夢へ飛び込んだ男。

 この三者三様の立ち位置、階層、レイヤーの違いが、不整合な形でぶつかりあう状況こそが、「悪夢探偵」の世界である。

 hitomiさんのぎこちなさ、松田さんの木偶の坊感。塚本さんの滑らかさ。それは、この映画の理由になるのだ。

ビューティフルドリーマー

 夢モノとなれば「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」である。「悪夢探偵」で、派手に窓ガラスを突き破り、突き抜けて別のシーンへ移っていくところに、夢邪鬼とあたるとの闘いを彷彿とさせた。この「悪夢探偵」で好きなシーンの一つである。塚本さんは夢邪鬼であり、松田さんがあたるである。そしてhitomiさんとラムとの違いは、この夢の世界が楽しいか否かの差にある。

ビューティフルドリーマーで、考えるべきところは、ラムの夢があたるの夢にすり替わっていくところである。夢邪鬼は、自分の夢を仮託したラムの夢を守るため、あたるを隔離して、交換条件として望みの夢を見せることにした。だが、あたるはそこに、ラムがいないことを不服として、バクを呼ぶ。バクはおそらく、すべての夢を食ってしまった。その時点でラムの夢も終了している。
「あんただけはゆるしまへんで~」と、あたるが持っている材料で即席の悪夢をあたるに見せ続ける夢邪鬼。そして夢は現実と同じなんだ、と洗脳し、再びラムの夢を作ろうとする。
 だが、あたるはリアリストである。思い通りにいかない現実を選択し、ラムに「責任とってね」といわれて現実に戻ってくる(?)だが、その世界もまた、夢邪鬼が作った夢ではないのか。ならば、あたるの意向など夢邪鬼にとってはなんの支障にもならないのではないのか? という点であるが、それはまた別の話で)

 覚めない悪夢

 塚本さんが死に、事件は終わった。松田さんも無事で、hitomiさんも無事である。

 そして二人は会話をするのであるが、違和感は去らない。

 そこがすばらしいと思う。

 この二人の会話の、言葉でのやりとりとしては成立しているのにもかかわわらず、どこか噛み合わない。別の世界にいる二人が水槽越しに話しているかのような違和感。終わった、という安堵感のないエピローグこそ、hitomiさんの「新人で居場所のない、そぐわない」感覚が、「夢は現実と同じなんだ」ということを体現してみせているように思うのだ。

 一度、夢邪鬼に見込まれた人間は、その暗示を脳内から消去することはできない。それは、自らの手の届かない領域に仕込まれた爆弾だからだ。

 だが、hitomiさんは、塚本さんと交わる前からすでに、そうした世界を生きており、今後もそのように生きていく人なのだろう。松田さんの歯切れの悪さも同じで、自分は何一つ変わっていないのだということを自覚しているのだと思う。

 この映画に「解決」はない。

 塚本さんという犯人のエピソードが一つ終わっただけのことであり、二人は相変わらず悪夢にうなされれる日々をすごすのだ。そしてそれは、まさにこの「悪夢探偵という映画体験」そのものなのである。

 丁寧に計算されて埋め込まれた「違和感」が、脳をズレさせる。疑問と自己解決と打ち消しと仮説と、証明にならない実証実験と。そんな循環に落ち込んだとき、人は表層の下にある「真実」を白日の元にさらけだしてみたくなる。そんなものはなく、ただ血みどろの肉の塊が出てくるだけなのに。

おわりに

 この映画を見ていて、『鉄男2』や、『東京フィスト』を思い出した。

そして、ラスト近くの、ダストシュート(?)のシーン。大好きである。