望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

唯脳から唯識が、資本主義からエネルギー問題を経て宇宙船艦ヤマトに至る話

脳=自然=普遍という経路

唯脳論復活?

 唯脳論の駄目だったところは、脳だけで世界を説明しようとして、実は「社会」しか説明できなかったところだが、近代における「自我」によって霞んでしまった「他利」への抜け穴として、古層の神話的共通点を取り上げ、その世界観をもって普遍を見出そうとする中沢さんが、ホモ=サピエンス=サピエンスが大脳新皮質を装備し「流動的知性」を獲得した点を強調するとき、しぶとく息を吹き返そうとする。

統一規格 

 自然を理解する装置として、統一規格の脳(=身体)が、装備されているのだから、その結果得られるものが似通ってくるのは、当然。そこに見られる差異とは、主に地理的な差異から生じているにすぎない(構造主義にこれらを捨象する)。

多様な価値観は消費社会にぴったり 

 すぎない、と書いたがこの違いによって、多様な生活スタイルが生じたこともまた「流動的知性」の働きといえる。(進化論では個体差から亜種の派生につながるが、人類の場合は人種の多様化は進まず文化の多様化が促された。体を変化させるよりコストが低いといえる)

唯脳論と古層の回路

 同じ脳だから同じことを考えつく、という姿勢に、唯脳論が入り込んでくる。
 だが、現在という配られたカードから未来を予測しようとする「唯脳論」と、神話の古層から「普遍的な態度」をつかみ出そうとする中沢さんの姿勢とは、真逆だ。

組み込まれる整流器

 今私達が持っている脳は、近代社会、資本主義全盛の社会、貨幣経済による支配といった環境に順応した脳だ。生れ落ちてすぐ、私達は上記のシステムへ順応すべく教育を受ける。無論、資本主義を敵とみなす場所や、貨幣経済が破綻した場などの、地理的差異は生じる。生まれた脳はそこで行きぬくために、そこで生きてきた先輩の脳によって、強力な整流器を組み込まれる。

物質からの卒業

 唯脳論では、その整流器回路から出ることができずそれを前提として未来を論じることしかできない。過去と未来との決定的な非対称性にがんじがらめとなった現在は、物質であることの不自由さを嘆き、VRに逃避する。その結果、逆説的に「唯識論」が肯定されるだろう。引き篭もって面壁九年など、あっという間のたやすい修行なのだから。(修行といえでも食事は必要だ。修行のためには誰かのサポートを受けなければならないが、部派仏教においてはその成果は個人に帰される。サポートはまさに、滅私奉公である)

物質枯渇という閉塞

北斗の拳

 資本主義は、絶え間ない市場への新製品供給によって回る。資本ー物ー資本+という円環が成り立つには、仲立ちする物が無尽蔵に供給されなくれはならない。希少性もまた資本+に貢献するが、それが生活必需品であったばあい、資本よりも物の確保が優先されるだろう。北斗の拳の世界では、100万円相当の貨幣と、お猪口一杯の水との交換は成立しない。貨幣とは交換価値である、とはこのことだ。

消費マインドのすり替え

 数十年前に、エコロジー運動が盛んに取り上げられ、省エネはライフスタイルとして浸透した。地球温暖化という体感的に納得しやすい問題意識によって、フロンガス二酸化炭素の廃絶にむけた努力もなされてはいる。海中や微生物による新たなエネルギー資源も発見され、太陽光パネルの効率化、水素エンジンなどの新燃料についても進んでいる。だが、消費を抑える方向に誘導するわけにはいかない。消費マインドをうまく誘導して、環境に優しいという新たな購買動機を植えつけるのだ。新エネルギーだって既存の企業がうまく取り込むし、国や自治体は税収を確保する。

露呈

3.11が残したもの

 しかし、これらは永遠に続くものではないということを如実に顕わし、多数の日本人がそのことを実感、共有した出来事があった。3.11だ。

津波原発地震

 3.11の記憶は、地震の巨大さというより、津波と、それによる原発メルトダウンインパクトによって記憶されることとなった。夏の輪番停電というかつてない施策が、受容されたのは、その衝撃に、国民が我を忘れていたせいだろう。我を忘れて、みんなのために我慢するという倫理観が刹那に復活した期間として銘記されるべきだ。これは、昭和天皇崩御時の自粛ムード以来といえるかもしれない。

停電が終わらないよ… プロパンっていいな

 エネルギー資源の脆弱さを身をもって感じた日本人は、太陽光パネルの設置にいそしみ、とうとう電力会社からの買取拒否といった自体にまで発展した。だが、その際、なぜか家庭用蓄電池は普及せず、日産リーフによる家庭用バッテリー提案だけがさかんに宣伝されていたことに大きな違和感を感じた。(発電と送電の分業化も進められているし、一家族で完結するエコシステムだと、お金がとりにくくなっちゃうからかなぁ。)

電気なの? ガスなの? ガスで電気なの?

 そもそも、地球温暖化対策として有効なクリーンエネルギーのはずだったはずの原発オール電化が、災害時の不便さを露呈した結果、ガス会社によるエネファームがシェアを伸ばし、安価で安全でクリーンだったはずの、核分裂湯沸し装置の稼動進めていた国も、ひとまずはガスへ方向転換をはかった。(ところで、中沢さんも指摘していたけれど、超最先端テクノロジーでお湯を沸かす、とクソおもしろいギャグに半笑いで取組んだ結果が福島だったと思う。ともかく、現代の技術の大半をささえているのが、「蒸気機関」だという事実を恥じて隠し「スチームパンク」のかっこよさを打ち出せないデザインの無能を嘆くしかない。あの炉心の断面図って、ヒワイだったよ)

http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/Fukushima/containment.gif

大丈夫なの そう 大丈夫なんだ お金、とるの?

 原発が全て止まっても、あの夏のような停電の依頼はなかった。
 だが、電気代は、原発施設の解体と、安全基準強化への対応のための設備投資のために膨れ上がるうえ、再生可能エネルギー買取費用の上乗せ分の負担ものしかかる。
 そうやっておいて、原子力発電なら電気代を安くできるから、という理由で再び原子力に舵を切りなおしている。同時に2017年には大口のガス事業が自由化される。この日和見的な政策。

テロも理由にこじつけて

 私は別に原子力でもかまわないが、絶対安全なら、東京湾に作れ、という主張には大いに賛同するものである。「施設は安全でも、テロなどによる攻撃があったら、国家機能が麻痺するから、国家機能とは無関係な田舎につくるべき。そこならテロの対象にもならないから安全でしょ」という理由が、昨今のテロ頻発をうまく取り入れた説得材料となるだろうか。

かくかくしかじか

 ともかく「核技術」から撤退したくない日本。
 唯一の被爆国であり、何番目からの原発大事故国にもなって、ますます世界で大きな顔できるけど、最先端技術をもってしても、配管からの漏水が止まらず、凍りが溶けるから地下水の流入が防げず、土地が傾いているから、ドラム缶から水が溢れ、除染という高度に専門的作業の実体が、表土をスコップですくい、表面を水で洗うという命をかけた単純作業。困窮する労働者ばかりがリスクを負っている。

非対称的技術張り合わせ 

高度差

 原発においては、炉と、それを取り巻く作業との、落差がありすぎて耳キーンなるわ(by 後藤さん)。インターフェイスを欠いた技術と中沢さんが評しているが、かっこよく言いすぎだと思う。結果、炉心が暴れだしたら、みんなで拝むしかないのに、アンダーコントロールと言い張っている政府(前も今も)。全く笑えない冗談だ。

9条に踏み込むの?

 ここまでして原発技術に固執するのは、きっと将来の核配備を見越してのことだと思う。何か理由があれば、国家を守るための核配備なんてすぐ可決される。幸い(?)なことに、世界情勢は不安定だ。EU分裂も間近のようだし、ロシア対アメリカの対立が表面下していたり、中国がますますなりふり構わなくなってきているし、インド、パキスタンも相変わらずな上、テロは頻発しているし、代理戦争としての内戦も泥沼。

そんななか、資源の枯渇、あらゆる格差、難民の受入問題と、受入難民の犯罪による排斥と、あまりニュースをみない私でもこれくらいのトピックは並べられるほどだ。

日本の進むべき道を古典に学ぶ

 

 来るべき全面核戦争の後、汚染された地球を離れて自然再生を待つコロニーを作るか、イスカンダルにあったというコスモクリーナーDというオーパーツを再現するか。日本が核に関わる場合は、このどちらかしかないと思われる。

それなら日本は、核武装よりも、福島をテストケースとした「放射能除去装置の開発」の一択ではないか。

ということで、宇宙船艦ヤマトを、もう一度見てまなぼうと思う。

さいごに

この年初のブログでは、「核」について書くつもりではなかった。(とかくつもりでもなかったのに恥ずかしい…)

 唯脳論から唯識論。そこから、霊魂とアニミズムにいって、物質とはデザインのダルマであるという主張を数々の引用で補完しつつ、人間のみにとどまらない「識」の源について論考しようとしていたのである。

なんでこうなったかなぁ~

一応今回の参考文献は

『野性の科学』講談社(2012)中沢新一著 第7章まで読んだところ

以上