真理とは
このブログを書いている途中で、この物語の恐ろしいところに気が付きました。書き直すのは面倒なので、結論だけここに書いておきます。
この一連の事件で、もっとも得をしたのは、槙野真理男でした。町長を使って槙野真理男の意思のままに悪徳警官を殺し、外部に繋がるケーブルテレビ局を破壊し、うるさいジャーナリストを始末することができたのです。
着ぐるみを着て警官を撲殺する場面。あの中身は本当に町長だったのでしょうか?
5人の警官のうちの最初の何人かは、槙野本人だったのではないでしょうか? 町長はそれに感づいて槙野とともに、警察に対する戦いを続けるのです。協力ではないでしょう。町長も楽しんでいるのです。もしかしたら、槙野は、警察を馬鹿にする遊びとして、町長を懐柔したのかもしれません。金があり、警察のシステムに侵入する仕組みをもっていながら、有効な活用法を思いつかないでいた町長は、この遊びに乗るでしょう。命を懸けた遊びほど、楽しい物はないのですから。
狙いは初めから、タカハシを自殺に追い込んだ警視総監だったのです。槙野真理男は、8年前に邪魔が入って殺すことができなかった相手を葬り、邪魔をした警官をも葬ったのです。
こうして、住民達のコミュニティを壊そうとする警官は全て殺害し、しかもその罪はサイコパスとして法の裁きの外にある町長が被る。(結果的に、町のため、町民のために尽したのだともいえる成果です。タカハシさんを失い、求心力をも失いつつあった黒水町に、ふたたび前科ある人達を集め「優しさ」からなるタカハシの存在を再生させたのは、なんといっても、町長の力です)
冠城さんをあの倉庫に呼んだのは、警察による無抵抗な犯人の射殺を演出するためでしたが、その目論見は外れました。けれど、それは何のリスクもないつけたしに過ぎなかったのです。
槙野真理男と藤井利佳子が経営する喫茶店に、異常に目をかけている町長という図式は、これで納得できます。そして、あのハーブティーには、もちろん麻薬成分が含まれており、この町への定住者、コミュニティーへの参加者を増やすのに一役買うはずです。この親密な関係を、右京さんの前で隠そうともしない町長の作戦に、右京さんはのせられたのです。
「君の声を利佳子さんにもきかせてあげてください」と言われた真理男は、電話に向かってこういうはずです。
「私は、獣として、帰還する」
町に戻れば、彼はタカハシの後継者たるカリスマなのです。町は彼と彼の恋人のものです。
以上
以下は、上記に気付く前に書いていたブログです。参考までにどうぞ。
ネタバレしてますので、これから見るって方はお気をつけてください。
アイマイすぎた様々なこと
放送されるたびに沢山の反応、論評、意見がアップされる『相棒』は愛されていますね。かくいう私もきっちり見ているドラマは相棒シリーズくらいですし。
相棒はやはり、国家、官庁を相手にするところが醍醐味ですね。というわけで、今回は、警官の連続失踪事件が発端となりました。
結果は、たった一人のサイコパスによる愉快犯に収束し、八嶋さんの演技に頼った力技演出でした。
指摘事項
『帰還』の欠点と、様々な「遊び」については、以下に引用させていただいた方々をはじめとして、大勢の方が、詳細にご指摘なさっています。とにかく今回の話にはアイマイな点が多すぎました。
oldfashioned.cocolog-nifty.com
このブログで取り上げる二つのこと
そのうち、私が取り上げておきたいのは、以前から気になっている
右京さんの「正義の変節」
についてと、作中、キーワードになりそこなっていた
「優しさ」についてです。
(↓ 正義の変節に関する以前のブログ)
揺らぐ正義
遵法原理主義
かつて、右京さんの正義は、明確でした。それは「遵法原理主義」と呼ぶべきものです。『法の不備のため罪にとえない犯罪があったとしたら、法整備を行って後、断罪すべき』という融通の利かなさが、右京さんのエグ味であり、人物造形の根幹だったと思います。
かつて、この主義を曲げさせることができたのは、神戸尊さんの最終回「罪と罰」において、神戸さんが「検挙するなら胎児を殺す」と詰め寄った事件のみでした。
相棒の資格
結果、神戸さんは自ら特命課を去ります。右京さんに主義を曲げさせた自分は相棒である資格が無い。と
今回の事件で、冠城さんも、「相棒の資格」を口にしました。
犯罪者を憎むがゆえの殺意
冠城さんの場合
犯人に対して抱いた殺意を告白した冠城さんに対し、右京さんは、その殺意をギリギリで抑えた理性をたたえ不問としました。その背中に冠城さんは深く一礼するのです。(映画 「セブン」なら殺していたんですけどね)
陣川さんの場合
以前、陣川さんも、婚約者を殺した犯人を殺そうとし、羽交い絞めの状態で阻止されたことがありました。
右京さんはこのとき、陣川さんに「昔の自分に戻りなさい」ということしかできませんでしたし、サイコパスであった犯人には、もはや一言も語る言葉を持ちませんでした。
サイコパスに届く言葉は?
今回の犯人もサイコパスでした。
右京さんは、取調室で言いました。
「あなたは、人生の本当の楽しみをしらない。哀れな人です」と。
全能感をもった相手は哀れみをかけられるとダメージを受ける、という紋切り型です。演出上は微妙ですが、八嶋さんはなんのダメージも受けていないでしょう。
ここでは、八嶋さんの計画が惨めにも頓挫したことを笑えばよかったのではないでしょうか。
それでも、彼は自分が39条によって責任能力をもたないと診断されることを知っているのですから、大きなダメージにはならないことでしょう。病院を脱走して再び右京さんの前に宿敵として現われることだって可能なのですから。
彼なりの正義を貫いているようです
槙野真理男さんは、「常に自らの拳で自らの正義を貫いた」と、右京さんは言いました。だが、その行為は右京さんにとって犯罪以外のなにものでもないはずです。
前掲した、『第3話 人生のお会計』の回においても気になったのですが、
明らかな犯罪者であるにも関わらず、その被害者となる相手がより悪人であると右京さんが判断していた場合、右京さんはその犯罪者に、憐憫、同情、共感の意を表すのです。それが変節なのか、第三話限りのブレなのか、との疑問が、今回の放送で解消しました。
右京さんの正義は 変節しているのです。
司法への越境
遵法原理主義の正義から、個人の判断による情状酌量という、司法の場でしか認められないはずの判断を自らに許してしまっているのです。つまり、右京さん自身が、罪を裁く立場に立った。
それまでは、真実を明らかにすることのみを第一義としていた右京さんでしたが、シーズン15にして、とうとうその一線を踏み越えたのです。だからこそ、裁きを受ける槙野に、このような驚くべき言葉をかけることができたのです。
「正義よりも、大切なことですよ」
映画への伏線なのか?
これまでの右京さんからは、ありえない言葉です。槙野さんの犯罪は、甲斐さんの犯罪と同じなのです。
「暴力を伴う正義は認められません」と明言してはいますが、それにしては態度に差がありすぎるのです。
そして罪を償った後、藤井利佳子さんのもとへ「帰還」するよう優しく言った直後に、あの言葉が続くのです。(ところで、彼女はどんな犯罪を犯してここにきたのでしょうか。信じて欲しいとはいえない。警察はどうしても信用できない。そんな風な心境になる犯罪とは? さらにどのように槙野さんと知り合って、親しくなったのか。彼はしゃべらない男なのです。アイマイです。彼女は待っているに決まっている前提の、「帰還」もしっくりきません)(⇒ただし、槙野さんがしゃべらない、というのは利佳子さんが言っているだけのことです。となると、緊急手段用のガラケーをもっていた理由もかわってきますね)
右京と愛
これは「愛」でしょうか?
右京が正義よりも「愛」を重んずる刑事ドラマとは、つまり「はぐれ刑事純情派」に他ならないではありませんか。近年の相棒シリーズにおける事後の説教シーンにはどうにも居心地の悪い思いをしていました。右京さんが、犯罪者に罪のなんたるかを啓蒙し、自らの罪を自覚させることに熱心であるように見えるのは、真実を、犯罪者につきつけたいからに他なりません。たとえ、守りたい人を守るための犯罪であったとしても、「犯罪によって解決できることなど何一つ無い」と冷然と言い放つ。「あなたは、こうすべきではありませんでした」とだけ言い捨てて、一課に引き渡す。それこそが杉下右京さんではなかったでしょうか。甲斐享さんのシーズンから、不要な「人間味」を備え始めた右京さんは、「優しさのみを動機とする犯罪」にどう対処するのだろうか。 それが今回の『帰還』の、本来の、もう一つのテーマであったと思うのです。
優しさの問題
右京さんが、優しさのみを動機とする犯罪にどう対処するのか? と私は書きました。
「この村の人たちは優しい」「タカハシは、とても優しい人でした」
「優しさ」は、確かにこの話の二つの柱の一本だったはずでした。
オマージュについて
二十世紀少年へのオマージュについては詳細な指摘をなさっている方がいらっしゃいますのでそちらを。「タカハシは教祖というより友達だ」というセリフから、細かく探せばいろいろな遊びがみつかるものと思われます。
黒水町 close 閉じた、近い。黒い水、濁った水。黒い渦。そして、Gメン’75の黒谷町シリーズの召還について指摘なさっていた方もいらっしゃいます。
連呼される優しさ
この町の人達は優しい。町長も、藤井さんも、そういいました。それには、かつてこの町にあった宗教の教えが生きているのだとの説明がありました。(団地の住人に関して、もともとこの地には前科のある人が集まっていたかのような描写がありました。となると、現町長の画期的施策の効果が薄れますが、このあたりもアイマイです)
そこに、あらわれた「タカハシ」という男。彼はただただ優しかった。と老婆はいいます。それからこの町には、優しさと、宗教儀式の道具としての麻薬によるコミュニティーが成立したということのようでした。
アイマイなカリスマ
ただ、残念なことに、当時の様子はイメージシーンで挿入されるのみで、彼がどのように人々のカリスマとなっていったのかは描かれていませんし、槙野がなぜ、彼を慕うのかも不明です。(両親がなく、祖父も失くして天涯孤独となった槙野を団地の住人とタカハシが育てたということのようですが、なぜ口を聞かないのかは不明です)
私は獣として帰還する
「優しさ」によるコミュニティーは警察の見込み捜査でズタズタにされ、タカハシさんはそれへの抗議として割腹自殺を図りました。そのとき残したのが、この言葉だそうです。タカハシさんの優しさは、非暴力不服従的な優しさだったようです。この姿勢は、数多くの犠牲を払ってなお、その姿勢を貫くことによって完遂されるものです。タカハシさんは、「優しさの限界」と「力」の必要性を痛感し、死んで言ったのでしょう。その「力」を体現するのが槙野さんだということのようです。槙野さんは、タカハシさんの意思をこの地に実現するまで、願掛けの意味で、言葉を封じたのかもしれません。であるなら、タカハシさんの優しさを継ぐ者として、悪徳警官を殺すこともまたありうることです。(⇒ ここで、槙野がタカハシを継ぐ意思をもつのであるなら、自らの拳による正義をなぜ、悪徳警官達にふるわないのか? との疑問がわく。そして、冒頭のようなストーリーに到ったという次第)
庇い合う犯罪
正義と優しさが並ぶとき、真っ先に浮かぶのは、「かばいあう」という行為ですが、この団地ではむしろ、槙野が犯人であることこそ、タカハシの再来を表すのだとの誘導がなされていて、槙野犯人で住人全員が口裏を合わせるのです。蘇ったタカハシの命をうけた槙野。かれはだれにかばわれることもなく、まさにイエスとして十字架にかけられることを望まれていたかのようです。
優しさはどこにあったでしょうか。今回の話において「優しさ」はたんに私が気にしすぎていただけなのでしょうか。「細かいことが気になる。僕の悪い癖」
さいごに
今回の脚本監督コンビは、今シリーズの第二話 チェイン において、工藤春馬、羽賀、野中、を登場させてくれたコンビです。マキノマリア、フジイ、リカコ。今回もわが軍ですね。映画の脚本も手がけているのでしょうか? もしそうなら、フクムラセイタロウ以上の衝撃を期待しています。
前掲の他に参考にさせていただいたサイト
公式